Lambdaカクテル

京都在住Webエンジニアの日記です

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インターネッツ気が立ってる人があまりに多い問題 / 自分の瞬間に生きたい

あの時はまさしく自分の人生を生きていたな、という瞬間がある。心が衝き動かされるようないっときが。

どこか世の中を醒めた目で見ていたので、高校生時代は自分が人生の中心だったり、「世の中の大事なこと」が人生の中心だったりした。

興奮すること、熱を帯びること、何かに熱中すること、自分の周りしか見えなくなることに、どこか心の中で抵抗がある。多分その辺の分水嶺は11年の震災にあって、スイーツやクルマといった娯楽に興じる人がいる中、暮らしがめちゃくちゃになっている人がいる、不正義が蔓延っている、と当時の自分は考えたのだろう。何も考えずに遊んでいるのはけしからんというわけである。今思えばなんと全体主義的な青年であることか。純粋に生まれた全体主義である。

今考えると、それはそれ、これはこれである。1つのことしか考えてはならない、というのはおかしな話で、社会のことを考えてもいいし、東方アレンジCDの新作のことを考えても良いのである。結局、自分が気になっていることに同調しない他人が理解できなかっただけの話であり、自分の中でも一貫してその事を考え続けなければならない、意見を持たなければならないという欺瞞に掛かったのである。

自分の瞬間に生きた方がきっと良い。社会はこうあるべきというトップダウンで作られるのではなく、各々愉しんでいる個人が集まってできている。

とはいえ、巷には「みんなの事」に関する言説が溢れている。善良なる一市民としての模範的態度はこれに対して意見を表明し自由と民主主義とを守ろうとする、なのであろうが、なんでそんな事気にせにゃならんのか?という保守的態度も自分は持ち合わせている。いわゆる左派的態度というものがどんどんグローバルに、どこか現実離れしたものになっており、より胡散臭く、しらけたものになっている。インターナショナリズムというのは元来こういうものなのであろうが、そういうところがウケないんだぞと思う。労働者という地に足のついた存在からふわりと離れて、大衆的実感のないままに性的マイノリティについて語って見せたり、平和について語ったり、BLMに言及して見せている。ように思えてしまう。みんなの事がみんなの事である所以を誰も説明しない。

脱線した。

ほどよく自分の周りしか見えていないうちが一番幸せである。というか普通はそうなるはずなのだが、とかく最近はやかましいので、何か感じるたびにこれは性的マイノリティに配慮していますか?これはジェンダーバイアスではないですか?あなたは与党を支持しますか?一方的にあなたは女性を搾取していませんか?とか色々なことを内面化して考えなければならない。感性を否定されているような気持ちがする、なんかそれが一番圧政的で、息苦しいような気持ちになる。ネットでは自由に物が言えない。自由を希求するべき立場の人々が、人々から自由に喋る自由を奪っている。

自分は同性婚も選択的夫婦別姓もやったらよかろうという感じの人だが、インターネッツにはその話題に関して気が立っている人があまりに多いので、貝になって、海の声だけ聴いていたい。

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