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シンプルな暮らしへの反感 / 全てはやれない

定期的に部屋がきれいになったり散らかったりする往復運動を繰り返している。

その都度どうにかして部屋をきれいにしようとするのだが、「散らかっている」の向こうには「散らかっていない」という状態が存在していて、その向こうには「シンプルな部屋・暮らし方」というものがあるらしい。

その「散らかっていない」から「シンプルな部屋・暮らし方」というところで、いつもつまづいてしまうのだ。

その過程には不要な物品を捨てていくという段階があるのだが、人工的に物を減らしてシンプルになった暮らしに対して何となくの違和感を感じてしまい、素直にシンプルな生き方というのを呑み込むことができない。

シンプルに生きるということは、一見万病に効く霊薬のようにもてはやされるが、それだけ多くの選択肢を放棄し、自分の制御下にない誰か、何かに委ねてしまうという事を、どうしても見逃せない。自分は何でも自分で決定したいという性分なのだろうか、それは自分で生きる事を手放す事なのだという警鐘が頭の中で鳴り響いて、シンプルな生き方という言葉に脳が蕁麻疹を起こすような感覚がある。

自分で生きる事を手放す代わりに、自分が考えるためのリソースを増やすことができる、という事なのだろう。すなわち、注力する場所が変わるだけのことであり、例えば物質的な側面には気を配るつもりがないので精神的側面にリソースを費やしたいというのであれば、毎日同じ服を着るとか、毎日外食するということになり、空いた時間で電子書籍を読んだりできる。

自分のメンタリティは都会の人ではないので、何となくそういうあっけらかんとした態度に慣れない。自分にとって重要ではない側面をあたかも存在しないかのようにみなすのが気に食わないのか、「もしかしたら重要かもしれないこと」を重要ではないと切って捨てることへの反感なのか、本質という言葉への不信感なのか。自分は現物主義で実用本位に物事を捉えているのかもしれない。言い換えれば、精神的文化を持たない野蛮人。

シンプルな暮らしの向こうに何が描かれるのか?何を望めるのか?というイメージがあまりに湧かないので、現にイメージを与え続けてくれている物品をあえて捨てようという気にならないし、これさえあれば良いのだという大鉈を振るう大胆さがない。

といいつつも、じゃあモノに囲まれていれば困らないのかというと、特段そういうことはなくて、結局やれることはそんなに多くない。生きる事を手放すなんて書いてみたところで、じゃあ今生きる事を手中に収められているのかというと全くそうではなく、むしろ自分が掌上にあって踊っている。最初から全てやることはできないという諦めの境地に立つ必要がある。自分はいつも何でもやろうとする。全てを達成したくなる。だが一人の人間が全てできるのであれば社会はもとより不要なのであって、結局一人の人間にできることは限られている。人間は何かしかできない。

シンプルさへの反感は、自分には何でもできるという無限の思い上がりがもたらした蜃気楼であって、結局並大抵の気力で一気にやれることはそんなに多くないのだという理解に達すると、シンプルさに結局行き着くのかもしれない。

じゃあいくつかにやりたい事を絞ってそれに忠実に生きてみるとなると、身の回りのものはそれを邪魔しないものが良い。すると結局シンプルな家具とかシンプルなデザインというところに落ち着くのだろう。

自分の場合は、日々の雑念を振り払って、のんびり読書することに集中したいと思っている。あまり手を広げすぎないというのも賢い生き方なのだな。

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