Lambdaカクテル

京都在住Webエンジニアの日記です

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何かをけなすことで結束を強めているコミュニティ

今日は好きな紅茶専門店に行けたので良かった。アッサムをストレートでいただいた。ミルクティにも向いている、しっかりした風味が特徴の茶葉だ。きっとここにいる人間は皆紅茶が好きで、そこそこ並ぶし待たされるにもかかわらず、紅茶を飲みに来ているのだろう。紅茶クラスタとでもいうか。

けなすことを厭わないコミュニティ

誰しもがなんとなく1つのクラスタというか界隈に所属している。そしてその中では風潮や規律があって、どこどこ県警最低だよね、ということになっていたり、フェミを敵視しておくことになっていたり、非科学的なものは邪魔で間違ってるよね、ということになっていたりする。そういうのを守れる、というか信じられる人間はその界隈に所属できる。分かりやすい善か悪があつらえてあって、それをいっしょに崇めたりけなしたりする。ひとまずそういう陣営のどこかに所属していれば、他のことは何も考えずに済むから、生きていく上では気楽で、賢いのである。言い換えれば、自分を何と定義するかということだ。なにがしかの定義に自分からハマりに行って、自分をある概念に括り付けることで、こうあるべきという概念を手にする。そしてそれを忠実に履行することで、やはり自分は正しかったと安心するのだ。構造だけ見れば宗教と同じようなものだ。

みんな無邪気に何かをけなしたりして、「君もそう思うだろう」というような面持ちでこっちを見るのだけれど、私が、しらけて思い通りの反応をしないのできょとんとして、決まりの悪そうな顔をしている。

割と少なくない人々が、平気でなにかをけなせるのだ。自分にはあまり信じられない。自分としては、まあ色んな奴が居て、様々な見方があるのだから、利害の対立は仕方ないけれど、なるだけ歩み寄りたいですね、という感じなのだけれど、平気で「許せない」とか、「気持ち悪い」とか言っちゃうのである。しかも、界隈ごとに、だいたい同じものがけなされていたりする。俺たちこそが正しくて主流なんだ、という強欲に息切れがする。そういうのが嫌なんだ。うんざりだ。そういうことで敵味方を識別しようとしないでほしい。

誰かの言う偉そうな事はひとまず疑うというひねくれた態度で生きているので、けなしているのは一面的な見方だとすぐに分かる。そういうのの欺瞞というか、しょうもなさが鼻について、あまりそういうのに馴染めなくて、一匹狼の真似をするのだけれど、人間はそんなに頑丈ではないから、どこかに所属したくなってしまう。各人にはそれなりの事情があって、それぞれの役割を果たしているのだけれど、好き勝手悪党にされたり崇められたりして、それを笠に着て説教やマウントの道具にされているのが見え透いて、自分はなんだかおかしくなってしまう。

そういう人は子供っぽいと思ってしまう。それとも自分が青いだけで、世の中そんなもんなのか。

存在しない悪意を読み取る

さらに悪いのは、そういうけなし屋を見すぎて、他者の言動にけなす意図があるのではないかと感じるようになってしまうことだ。自分に向けられているか他者に向けられているかを問わず、それは別界隈への皮肉ですね、みたいな悪意を感じ取ってしまう。ネットではたまにホンモノの生粋の悪意に遭遇するのだけれど、その印象が強すぎて、存在しないはずの悪意が普段見えるようになってしまう。幻肢痛のような痛み。それは世の中に対してフランクであることを奪ってしまって、どんどん頭が固くなっていくような悪い予感がする。

負の絆

一瞬好きな界隈を見付けるのだけれど、そういう界隈には必ず一つはしょうもない排斥の論理があって、負の絆としてそこにいる人を結束させていたりする。そういう負の絆が嫌いで、あまり関わらないような暮らし方はできないのかと思うけど、見えるようになってしまったものを見えないようにするのは難しい。また与党ヨイショかよ、みたいなのが気になってしまうようになる。

何かをけなしている人間は実は少数派かもしれない。ネットで目立つだけで。でも心からそれを受け容れるには、長い時間がかかりそう。共同体というものへの信頼レベルが落ちている。

無所属状態

それで、どのような界隈にも所属したくないなと思うようになった。共同体への所属がない状態。無邪気にけなしたり、善悪を決め付けたくないからだ。でもそういう暮らしは空虚だ。あるべき状態への渇望というものが無くなる。世の中とは違うんだ、ということで自分を定義しているなら、界隈に所属しなくなった瞬間に、比較すべき他者も消え去るし、自分の特異性も消え去るのだ。優越感が無くなる。優越感が無い状態で心を豊かに保っておくのは、存外に難しい。

ネタ

ようは何かをネタにしてそれで笑うことで敵味方を識別している。ジョークにはそういう側面があるというのをどっかで聞いたことがある。例えば外国人をけなしたい人間は、外国人を小馬鹿にするジョークを作ってそれで笑う。わざわざ論理的な構成をしなくても、笑えるなら味方だし笑わないなら敵に分類できるのだ。

ところで落語では観客を不快にさせない題材というのがあって、「泥棒(わざわざ名乗り出て不快感を表明する泥棒はいないから)」「貧乏(貧乏人は金を払ってまで落語を聞きに来ないから)」「つんぼう(聞こえない人間は落語を聞きに来ないから)*1」の「三ボウ」といったらしい。まあWikipedia情報なのだが。 インターネット時代の現代にもそういう三ボウが出現してほしい。

棲み分け

昔は棲み分けという概念があって、わざわざ不快になるような界隈に行かない、不快になるような題材をよそに持ち出さない、という不文律があったのだけれど、シェアするのが当然、リプを飛ばして当然の現代にあっては難しいと思う。

*1:これは今時放送できないのでまず語られないが

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