生きてるだけでえらいよね〜。
なまじ知恵が働くから世の中の手軽に手に入る娯楽のウソというか虚しさみたいなことに気付いてしまう。嫌な知恵がついたね。所詮絵じゃん、とか、所詮他人を踏みつけるだけじゃん、みたいな。俺はそういうのに目を瞑ってしまう大人になれないから(それは偏愛を捨てることにもなるのだが)、満足を得にくい体になってしまった。でも満足したい。満足していないと欲求不満になり、イライラするし、眠れない。何かに関してどっぷりと満足の海に浸りたい。
いい加減なことをやって満足できなくなったので、少なくとも自分が後ろめたくない毎日を過ごさないといけない。そうしないと幸せを感じられない。完璧主義というか、規範を信じ込みやすいというか。
じゃあ後ろめたくない毎日って何よ。たとえば高い腕時計をつけるとか、観葉植物に水をやるとか、バイクで出かける、ジムに行く、そういうのは後ろめたくない。よほどひねくれていないとケチのつけようがない。
所有欲は虚しいっていう人もいるよ。断捨離とかノマド的世界観とか、でもそれは所有欲が氾濫した世界に対するアンチテーゼであって、所有欲そのものを否定できるほど強固なライフスタイルじゃない。もう一つの所有欲が形を変えてあらわれるだけ。所有欲は常にそこにある。だから所有欲は悪いことじゃないし、むしろ積極的に認めてあげたい。ただそれがあふれる商業が嫌われてるだけで、俺には何の関係もない。
所有欲の話で脱線した。
後ろめたくない日常って、ようするにただ起きてただ働いて食って寝る、そんなんでも立派って言ったらなんか違うけど、そこに温かい息吹があるという価値を認めていいと思うわけ。いまはそんな時代じゃなくて、コスパ、生産性、無駄、成長、みたいな思考の通奏低音がすんなり受け入れられていて、ただ生きてるだけでは人としての価値を認められない、そういう世界なんだと思う。でも俺はただ生きてるだけでも万雷の拍手を、時代に背を向けられた生きる・暮らすという日常に息づく、朴訥な屈託のない笑顔に、枯れることのない賛美を見つけてもいいんじゃないのと思う。
だから人間が人間として人間と接することは重い意味があると思うし、それが忘れられて人が感情のない物や機械のように扱われ、呼ばれ、品定めされ、裁かれることに、不合理な反発を覚えるのだ。合理的で経済的な世界からすればそれは当然不合理で、排斥されるようなものなのだけれど、しかしやはり人間の人間らしさについて話題に上ると、思弁を禁じる術を忘れてしまう。
しかし俺の暮らす世界は経済的合理性によって、他人の血で支えられていて、その上でこんなことを説いてもフリーライダーでしかないという悲しみもある。
また脱線しましたが、生きてるだけで君は一生ものの芸術品だし、赤の他人と比べさえしなければ世界一になれるんだよ。
今日も取り留めがなかった。俺にとってはこういう文章を書くことが後ろめたくない満足な行為だったりもする。