Lambdaカクテル

京都在住Webエンジニアの日記です

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プライベートで勉強しないエンジニアはクソなのか→私生活に介入すんな/熱血部活動とかもこんな感じじゃないの/こういうの名前ついてたりするの

自分がなりたい理想像、あるべきと考えている像と、現実に自分が到達できる地点とがかけ離れているのではないかと思うときがある。つまり、理想が高すぎると思うときがある。

例えば毎日本を読んで勉強したり視野を広げたりしたい、と思うけれど、現実にはそうはいかなくて、回復で手一杯だったりする。もしくはより手軽なゲームに流れてしまう。

でも心の片隅では「自分は読書できる」と思っているからそのギャップに苦しんでいる、ということがあるのではなかろうか。

じゃあどうするかという話で、目指す方向性がいくつかある。一つに、読書をする方向、つまりなりたい自分に自分を合わせる方針。もう一つに、読書をしないことを納得する方針、つまりなりたい自分をスケールダウンして今の自分に合わせる方針。

こいつらどっちも長短あって、前者はなりたい自分になれて一時的にハッピーになるけれど、そのまままた理想が上がって今度は論文を毎日読む、みたいにハードコアな感じになる恐れがある。それでは永遠に満足しなくて苦しむことになる。じゃあ後者はといえば成長がそこで止まってしまって、あとからやはりこうなりたかった、と後悔したときに困る。

そもそも成長ってなんだよって話。エンジニアとしての成長、みたいに言うと、自分の人生というよりは仕事のための成長という側面のほうが強いし、エンジニアとしてこのことを言うのは社会的に非常に勇気を要するが、仕事のためだけに自分の時間を削るのは馬鹿馬鹿しいと思っている。

議題ここから

勉強しないエンジニアはクソ、みたいなのが定期的に話題になるけれどあんなの半分は経営者のポジショントーク、もう半分は自信過剰の自惚れだと思っている。「勉強する自分」がアイデンティティになったとき、人生における柔軟性を損なうように思える。勉強することは選択肢を広げるし良いことだとは思うが、それ自体はアイデンティティにするべきものではないと考えている。

しかし俺がネットで見かける人間は、「勉強できる自分」がアイデンティティになってしまっていて、そのマウンティングを行うための示威行為として、勉強しないエンジニアはクソ、みたいなことを言って回っているように思えてならない。

これが「React知らないエンジニアはクソ」だったら議論の余地が生まれるけど「プライベートの時間に勉強しないエンジニアはクソ」だと、そもそも主観的すぎて何とも言えないし、プライベートの時間に勉強するべきかどうかなんて客観的に判断できるわけないし、プライベートな時間の使途を「客観的に」判断するのは私生活への介入だし、間違ってるだろ。だからこれは議論することが不可能な事柄で、人様の私生活に口挟むなや!バ〜カ!って言っとけばいい話。「風呂に入るとき上半身→下半身の順に服を脱がないエンジニアはクソ」って言ってるのと同じだぞ。そんなのお前の知ったことか!真面目な顔して議論することかよ!失せろ!もっと他人の時間に対して謙虚になれよな。クソ付けて指弾するんじゃなくて「勉強するとこんなに良いことあるよ!みんなもやろうよ!」みたいにしないのはやはり引け目があるのか。

そもそも(ウェブ言語)エンジニアを神聖視しすぎじゃねえの、って感じる。俺たちは私生活を犠牲にして公に尽くし、世界を変える素晴らしい職についてるんだぜ!って自分たちを英雄視して自己陶酔してるようにしか見えん。たぶんそこから来てるんだよな。だから同職の人間が「プライベートで勉強してるか」が気になる(みんなやってなかったら陶酔できないだろ?)んだよな。おい!貴様エンジニアだろう!なぜプライベートで勉強せんのかね!エンジニアとして恥ずかしくないのか!的な。自分が崇拝するイデオロギーのために他人を従わせて小さな支配欲を満足させてるようにしか見えんわ。

たぶんこういう、自分に酔った人間(たち)が集団に同調圧力でイデオロギー押し付けて感動〜みたいなの、各地で見られる気がするわ。熱血部活動とかそういうのの極みじゃん。偏見か。これに名前ってあるんですかね。

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