Lambdaカクテル

京都在住Webエンジニアの日記です

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言葉が無力だなと思いつつある

SNSやネット空間における言葉の無力さを最近は痛感する(わけわからんクソリプが来て、反論するとシレッと消して逃げるとか、ウンコの絵文字を投げ付けて逃げるとか、攻撃的な逃げ口上を書き込む、みたいな)。著名なアカウントがそういうしょうもない人にタカられがちである。書き込まれる本人はせっかく自分の言葉で論理を組み立てているのに、それを台無しにするのはいとも簡単で、可哀想だと思う。悲しいことに、刹那的な言語暴力を行使するような人間は目立つので、筋道立てようとしている人を押しのけてしまう。

そういうのを見ているうちに、自分の中でも言葉や論理に対する信頼が低まっていて、やれやれと思うし、虚しさが残る。人間からホモサピエンスに退化してしまうような虚しさだ。 本来「言葉を使って論理的にやる」ことは大切なはずだ。しかしその信頼が自分の中で毀損されていく。論理的に筋道通った言葉にするだけ通じないんだから無駄では?と思ってしまう。ちゃんと考えて論理を組み立てても、割に合わない苦労だけが残るような環境だと、ものの考え方がどんどん雑になっていく。

自分の中で、論理的であることは良いことだという建前がぐらついているのだろう。まだ自分はギリギリ信じているけれど、コイツらとはどうしたって話が通じない、と思ってしまった場合、論理的であることの建前を放り出してしまうかもしれない。そういえばもしかすると、謂われのない暴力とか理不尽な思いをした人の中には、そういう建前が崩れきってしまって、筋道立てることに意義を見出せなくなってしまった人もいるのではないか。一種の学習性無力感のような状態だ。

論理的であることの建前が毀損された果てには、暴力最高人間になってしまい、論戦したり投票に行くより、物理的にボコボコにしたり、論旨とは無関係な人格攻撃をしたほうがいい、という人になるかもしれない。それは良くないと思う。 バカに合わせてバカになってしまうのがとても怖いし、みんなバカになってしまうのではないかと恐れている。

ありがたいことに、自分が好きなプログラミングという領域では、言葉の論理性は保たれている。筋道通っていることが良いとされるし、明晰な言語で喋ってくれる人にあふれている。そういう人と繋がっていたい。

人が増えたコミュニティには意味不明な人が必ず現れるし目立つものだ、と割り切ったほうがよいのだろう。そう割り切ることで、ちゃんと論理を組み立てる能力を失わないようにしないといけない。

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