Lambdaカクテル

京都在住Webエンジニアの日記です

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コンテキストの破壊、プライベートな会話、ディスインフォメーション、知的生産

今日はインターネットの友達や同僚などを交えてピザパーティをとりおこなった。 かなり久々に会う人もいたし、初めて会うという人もあった。ともかく、交友を深められたのはよかった。 たくさんの食器を使ったが、ほどよく食洗機に収まる程度にしか洗い物が発生しなかったため、 事が済んだら全部機械文明の力に任せておけば全てが終わったので助かった。

こうやって、わざわざ予定を作ってまで人と会うというのは、自分にとっては相当珍しいほうだ。 今回はたまたま、友達がタコスを作っていたりしたのをインターネットで見て、 自分も似たようなことがやりたくなって、誘ってみたところ快諾してもらったという流れだった。 ピザは頼むだけで着弾するので、ちょっとした人数が集まるときには活躍するご馳走だ。

コンテキスト性なプライベートな会話、非-コンテキスト性なネット

一つ気付いたのが、インターネット上の会話とは異なり、直接、 しかもプライベートな空間でそれなりの時間を過ごすときには、会話のコンテキストが連綿と生成されて、 その細い糸をそっと辿りながら会話が続いていくということだ。

われわれのようなインターネットパーソンは、 投稿とかツイートといった特定のフォーマットを借りて、一定量のなんらかの気持ちを箱詰めし、 見知らぬ他人に向けて放り投げることに慣れきっている。それは一方通行とまでは言わないにしても、 すくなくとも同期的ではなく、非同期のやり方だ。

それとは全く異なるやり方のコミュニケーション手段が存在 し得る のだということに気付いたのはパーティが終わった静かな居間でのことで、 そんな当たり前の事に気付かなかったのか…………というやや決まりが悪い感覚を覚えた。 ふつう、あらゆるコミュニケーションには文脈が連綿と存在するものなのだ。

だが、インターネットでは、コンテキストは徹底的に(もしくは意図的に)軽視されているようだ。というのも、 1ツイート1発言を行う単位で、どうしても思考の断絶が発生してしまうからだ。 コンピュータ的に喩えるならば、マルチスレッドでどんどん人間が動いていて、 ある投稿を終えたらもう「それ」は終わりで、 取って代わってリアクションするべき別の何かが即座に意識を吸い取ってくるのだ。次の「それ」 をやっているとき、前の「それ」で考えていたことは一切脳から掃き出されている。

この流れに抗う者もいる。スレッド————奇しくもコンピュータ用語と同名の————を用いて、 発言を一つのコンテキストにくくり付けようとする者たちだ。Twitterでは、スレッド機能を用いることで、 同一人物による複数のツイートを自らまとめることができる。

だが、思うに、この抵抗は成功しない。 ようするにスレッド機能はメンションを同一人物のツイートに特化させただけのものであって、 自分にメンションを飛ばしていくのと見掛け上同じ機能だ。そしてその「メンションと同じ」というところに、 コンテキストの破壊を生み出しうる要素がある、と言いたいのだ。

柴犬

先日、こういう記事を読んだ。

bunshun.jp

今年のはじめからずっと続いているウクライナ侵攻に関して、 ロシア連邦側の(プロパガンダ的だと指摘されているところの)宣伝ツイートに対して、 柴犬のクソコラ画像を貼り付けて、だいなしにすることが一定程度流行している、ということらしい。

これは、記事にも指摘されている通り、リプライ機能によってコンテキスト破壊が行われている一例である。 たいした労力もかけずに、他人の発言のコンテキストを毀損できるのだ。 この現象を好意的に受け入れる人もいるし、受け入れない人もいる。自分は、その賛否というよりも、 この「コンテキスト破壊」という行為の一般性について話してみたい。

Twitterといったプラットフォームの登場によって、 人々は自らブログやサイトを立ち上げるのではなく、 そうしたプラットフォーム上で発言することを歓迎するようになった。だが、そうした環境では、 連綿たるコンテキストの破壊が現実のものとなっている。

  • クソリプ現象
  • 炎上現象
  • (政治的意図を持った) 妨害的なリプライ
    • 過去の悪事を暴く画像を貼り付けるといった行為
  • 比較的力関係において劣る相手を晒し上げる行為
  • 勝手にコメント欄などで大喜利を始める行為
  • 煽り合いが始まる現象
  • とりあえずフェミニストを持ち出してくる

こうした現象はもはや今日のインターネットユーザにとっては食傷しきったものだろう。これらの行為は、 やや大ざっぱながらも、「コンテキスト破壊行為」としてまとめることができると思う。 そういう行為を行うと、議論の流れは妨害され、読者は文章の真意を掴むことができなくなり、 そもそも議論という行為への信頼そのものが揺らぐことになる。誰もが、 その場で議論することを正当と思わなくなったり、 むしろその場で議論されている事を嘘だと断じようとすることがある。

しょっちゅう発生しているフェイクニュースの類も、 このコンテキスト破壊の作用をうまく使って感染力を維持しているのではないか。 意図的に積極的にコンテキストを破壊することで、文章が持つ論理性というものを信じられなくせさせ、 より直情的で無理筋な内容の「説得」になびきやすくする、といったことは、 普通に行われているのだろうと思う。これは ディスインフォメーション と呼ばれているはずで、 実際にロシア連邦が情報工作の一端として実施しているという情報をよく目にする。

散らばっていた文脈を再統合する

実際のところ、自分もかなり思考が散漫としがちで、なぜなのだろうという事を考えていたところ、 この 頭の中で文脈を保持する力が弱体化している のではないか、という考えに至った。文脈を保持できないので、 すぐに別の文脈に飛ばされてしまうし、様々な考えに踊らされるように思考を掻き乱されてしまい、 いつも落ち着かない。思考の中に全然違う話題が侵入してきて漠然とした不安感に苛まれたり、 「なにか凄く沢山のことをした気がするのだけれど一向に何も起こっていない」 というむず痒さを覚えたりする。ふつう、自然界においては、同時に複数の文脈がどんどん発生するということはありえないので、SNSでツイートが流れてくるという状況は、脳にとってかなり特異な状況である。

逆に、現在の文脈を保持する、手放さないという意識を持つことで、 ただでさえ散らかっているインターネットの情報の暴力の中を、 真っ直ぐ自分の足で思考していけるようになるのではないか、と思いつつある。 結局情報というのは連綿としたコンテキストの上に立脚するからこそ光り輝くのであって、 それを切断されたバラバラの情報は、いっときの情緒的興奮を脳にもたらすかもしれないが、 それ自体切り欠きの無いパズルのようなもので、 組み合わせようとしてもただパラパラと吹き流されていくだけだ。

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