Lambdaカクテル

京都在住Webエンジニアの日記です

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「期待する」生き方の提案

他人や物事に冷笑的、とまでは行かないにしても、無関心だったり拒絶的、諦めモードになっていませんか。本稿はこうした精神的な態度を変えて、期待の炎に再び酸素を吹き込むのはどうかという提案であり、過去の自分、または未来の自分に向けたメッセージでもあります。

期待しない生き方はある、しかし苦い

これまで人や物事にほぼ期待しない生き方をしてきた。世の中のサービス、政治、個々人、映画、自分、知識、未来。 期待したところでそれが報いられなかったときのダメージが大きくなるだけだし、他人はコントロールできないのでそれに依存するべきではないからだ。 そういうわけで、何にも期待せず、得られた機会があったらそれに応じて行動する、という様式になることが多かった。 期待して大きく裏切られるとそれに応じて受けるダメージも大きくなるもので、自分は僭越ながらそういう局面を何度も経験してきており、最初から期待しないというスタンスが常態化していた。

それはそうと、同時に抑鬱的な人生の進行も暮らしの大きな問題として立ちはだかっていた。何かを遊んでいても飽きてしまう。飽き尽すまでやりぬければいいのだが、どちらかといえば酸素を断たれた蝋燭のように、突然火が消えてしまう。長続きしない。人生に展望がない。 長続きしているものはといえば、こうして記事を書くような執筆だったり、Scalaの勉強会の開催といった具合で、これはほぼ全部自分がコントロールできるものなのでしんどい目に遭いにくいから続けられている。

期待により人は自分を動かす

あるとき思い付いた。人間の報酬系というものは、何かを期待してそれに報いられたときに活性化するのではないか。突然思いがけない報酬が与えられるよりも、何かを目指して行動し、それが報いられたときのほうが、脳が感じる(なんらかの)幸福は大きなものになるのではないか。夢があって、それが達成される。目標を立てて、それが完遂される。これが幸福の合成回路のような機構になっているのではないか。 これがうまくいけば、自己効用感が高まる。つまり、やったったぜという気持ちが増える。これは個々人の自尊心に直結している感情で、あればあるほど良い。

さて、何かを達成するためには、それを目指して行動し続ける必要がある。目指すだけでは当然意味がなくて、向きと長さがなければ移動することができない。 この、最小限の達成を支える反応機構が「期待」なのではないか。シャワーを浴びているときにそういうことを思い付いた。 期待とは、リスクでもある。米を求めて水を撒いたり草を刈ったりしても米が得られるわけではない。やり続けた結果として一定確率で得られるということがわかっているだけだ。ひょっとすると台風で全部台無しになるかもしれないし、車が田んぼにダイブして使い物にならなくなるかもしれないし、車があなたにダイブして使い物にならなくなるかもしれない。そもそも、未来のことなのだから分かるはずもない。 しかし人類はそのリスクをうまく飲み込み、受け入れることで生き延びてきた。リスクがあってもそれを多少小さく見積って飛び込む能力を人類は進化させてきた。その帰結が期待である。

期待する生き方はある、時として痛い

ここはひとつ、リスクを承知の上で、期待する生き方を選んでみてはどうだろう。つまり、店員に期待し、政治に要求し、今日会うはずの誰かに思いをぶつけ、映画に怒ったり泣いたりし、自分を信じ、きっと大事な情報だと知識に興奮し、未来に夢を持つのはどうか。 期待しても80%程度しか返ってこないのが世の常だ。それでも積極的にそれを行うことで脳の報酬系が回転し、実利によらず体感的な幸福が増えるのではないか。 また、他者に期待することで、自分もまた期待に足る人間であろうというマインドが醸成され、人間としても良い奴に近付くことができるだろう。 子供は常に全速力で期待をする。子供が柔軟だとか覚えが早いと言われる所以はそこではないか。

問題となるのが、他人に期待しすぎると振り回されるという点である。期待するのはよいが、過ぎた期待はしないほうがよいだろう。例えば、言ってないことを期待しないこと。言ったことは期待してもよいと考えること。そういう線引きを持っておくのが良いのではないかと思う。

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