id:kiryuanzu のTweetをたまたま見て、うなってしまった。
学生時代、前半で単位が取れなかったり後期は就活のために色々やったりで何かに追われるような感覚が常にあったように思うけど、社会人になってからはそういった感覚がなく穏やかな精神で保ち続けていることにやっと自覚し始めたのでその心持ちでどう人生をやっていくかを考えた方が良さそうに思う
— 桐生あんず (@anzu_mmm) 2022年4月28日
たしかに自分も単位に追われる大学時代を送っていた。キャンパスには、浮世離れした悠長な感覚もフワフワ漂っていたし、それとは別に就活の名のもとに暗い光が外から差し込んできて、卒業する頃には社会という黒い太陽が登りはじめ、あたり一面を染め上げていくような不穏さも同時に存在していたのが、今となっては懐かしい。さきほど目の検査をしに大学病院に行ったけれど、そこもなんだか悠長な感じがしてキャンパスに近かった。人間は昔から病気になるし、それを直そうとしていて、その営みは普遍的で、誰もそのことに怯えることはない、という感じがした。
何かに追われる者はあまり幸せではないらしい。心を亡くすと書いて忙しいと読むのだし。じゃあ、自分にとって、それに追われていると感じるような全ては大学生の立場に由来していたのか、就職と同時に自分は追われなくなったのかというと、違うんじゃないの、と思う。仕事を始めて暮らしが落ち着いてからも、自分は何かに追われていると思う。
自分の「追われているような感覚」は、「世界がどんどん加速していくような感覚への違和感」なのだろう。世界の先端にいる企業はどんどんアクセルを踏み込んでいて、絶対にブレーキなんて踏まないし、どんどんどこかへ向かって疾走していくのだけれど、誰にも行き先は分からない。乗り込んだバスの運転手がとんでもない速度狂で、めちゃくちゃエンジンを吹かすので怯えているような感じだ。自分が未来をコツコツ築いているというよりは、スーパーエリートがスーパーテクノロジーで世の中を破壊的に変更していく、我々はそれに抵抗すらできない、という無力感がある。Googleが何かを定めたり拒否したりするとき、聖戦のために剣を取れる者がどれだけいるだろう?我々は漠然とアクセルを踏み続ける企業のことを信用しているけれど、自由は着実に削り取られている。いまのところGoogleのトップは狂っていないけれど、ある日突然狂ったら、どれほどのことが起こるのだろう。(多分、俺は、ニンゲンというものの良心をさほど信用していないのだと思う。)
その一方で、身の回り半径85cmの手が届く範囲では、なんにも起こっていないというギャップに驚く。インターネットには速度狂いがたくさんいて、最高のテクノロジーに乗ってよくわからない未来のために疾走する。これこそが人類が向かうべき未来だと言わんばかりに。疾走している雰囲気に呑まれそうになるかたわら、自分は風呂を一般的なブラシ(ブロックチェーンで動くわけではない)でゴシゴシ洗っていたりする。起業家たちは加速していく未来や最高のテクノロジーを演出して人々を感服させたり怯えさせたりする。その速度差で引き裂かれそうになる。自分はどっちの住人なのか?人類は本当に豊かになっているのか?
田舎出身の自分が特にそう感じさせるのかもしれない。(いちおう)最先端の技術を仕事にできて、最高のソフトウェアエンジニアリングをしてやるぞと意気込んで仕事をしていて、実際お金になっている。しかし、ITの光り輝く恩恵が地元にあまねく降り注いでいるかというと、否だと思う。地元では相変らず農業が行われているし、トラクターのインターフェイスは機械式で、Reactは動いていない。なにかが二極化しているのだ。もしくは単に、スマホが無かった世界をギリギリのところで知っているから、自分はノスタルジーに浸っているだけかもしれない。
そういう脆弱ながらもアンビバレントな世界に対して、なんとなく不安を感じているのだ。
まあ、もちろん、穏やかに暮らせるのが一番良いはずだと思うから、アランケイの言葉を思い出したいと思う。
未来を予測する最善の方法は、それを発明することだ
幸運にも、自分はわれわれの未来を創出することのできる立場に、ソフトウェアエンジニアのはしくれとして、ちょっとだけ乗っかっていると思う。ただ時々、自分は何を発明しているのだろう?と思ってつまらなくなることがある。自分は本質的に何から何を生み出しているのか?要するに、人間を広告に縛り付ける技術を磨いているだけなのではないか?と思ってしまうのだ…………。