Lambdaカクテル

京都在住Webエンジニアの日記です

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変化に気を取られて日常を失ってはいけない

外出を控えるのが国民的振る舞いとされている。先日よりうちは完全リモートワーク状態になった。基本的に仕事のために外出するということはなくなっている。とはいえ永遠に家の中にいられるわけでもなく、外の空気を吸いに、太陽を浴びに、世の中との曖昧なつながりを再確認するために、外に出てちょっとした必需品や食材を買って帰る。外出そのものがちょっとした幸せなのだ。もちろん手洗いうがいは欠かさないし、マスクもしている。可能な範囲で対策はやっているので、これで当たったら諦めがつく。完璧な対策というのはない。それは僕はよくわきまえている。適切にリスクを制御できればそれでよいのだ。そこから先は国の仕事だ。

今日も歩いてすぐのセブンイレブンにちょっとした食べ物を買いに行く。ほんの数分でたどり着いてしまう。散歩にしては短すぎる。誰もが傘をさしている。今日は傘が皆の心をつなぎとめている。雨が降ったら傘をさす。

変化

その道程において、エレベータが降っている間に、昨日の夜書いたエントリを思い出していた。幸せの定義がばらばらになっていくということ。 世の中は変わっていく。いつの時代の賢人も言っていたことだ。およそ変わらないものなどない。資本主義で小銭を稼いでいる、小賢しい人間たちがこう言う。適応した生き物だけが生き残ってきた、あなたも変化しなさい。この言葉が詭弁なことくらいわかっている。適性のある生物がたまたま生き残ったことを適応というのはあまりに不適当だ。とはいえ、世の中は変化していくし、それなりについていく必要があるのはその通りだ。でも変化ばかりが叫ばれる。変化するのだから適応しなさいと。

日常

皆が傘をさして買い物に出ている。そこでふと気づく。日常を見逃しているのだ。自分が、誰かが、堅持している日常。土曜日は寝て過ごすとか、ピロシキを近所のパン屋で買うとか、自然に優しい生活とか、最新のインターネット動向を見るとか、バイクで遠出するといった、そういう、俺はこうするんだという日常。日常があれば世界が変化しても人は生きていられる。 変化に気を取られて日常がなくなると茫然自失になる。今みんなが何をしていようと、世界がどうめまぐるしく変化しようと、落ち着いて日常に帰れる。

思えば大学で一人暮らしを始めた時から、日常というものがなかったことに気づく。ネットを見てはニュースに一喜一憂したりする。「役に立つ」ものしか買わない。 無駄遣いをして遊んでいる人間に腹が立つ。損をしたくない。お菓子は買わない。ジュースを飲まない。正解を探す日々。生活はあったが、日常は無色彩であった。

最近間接照明を買った。これ自体は何の役にも立たない。だが確実に日常の屋台骨になっている。精神的な支柱というべきか。物質的な豊かさに満足して、精神的な豊かさに突入したというべきか。

一人暮らしをする前もネットばかりしていたなあと思う。精神的な豊かさについて、もう少し造詣があればよかったなあ。 ネットは手段であって、別に豊かさをもたらしてくれるわけではないのだから。

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