マイノリティにかんする話題に触れ、書き出してみたメモ。
前提として、結論はないし、筋が通ったスタンスがあるわけでもない。結局のところ、わたしは何も知らないし、何もわからないのだ。寄り添うといった言葉の儚さみたいなものがあって、それは傲慢なのだ。
人数が少ないってのはそれだけで大変であることだなあ
— Windymelt (@windymelt) 2018年8月2日
「自然」という言葉には「てつかずの」という意味と「よくおさまっている」という意味が同居していて、本邦では「放置するとおのずから良くなるし、手付かずのものが最上である」とする思想が支配的なのかもしれない。
— Windymelt (@windymelt) 2018年8月2日
対照的に、「人は生まれたままのありさまでは野蛮なので、理性で克服していく」とする思想もある。
— Windymelt (@windymelt) 2018年8月2日
おそらくこれが「保守」「リベラル」的ななんかなのだと思っている。
— Windymelt (@windymelt) 2018年8月2日
「自然」(野生)観というのがあると思う。
— Windymelt (@windymelt) 2018年8月2日
放置、直感、常識に対する信頼度のつよさというのがあって、それが政治的立場に現れるのかなと思ったりした。また対置される価値観として、法、論理、変化、人工に対する信頼度というのがあるとおもう。
私にも大なり小なりマイノリティな部分があるが、私より断然マイノリティな属性の人もいるだろう。むしろ誰であれ潜在的にマイノリティになる。
ところでマジョリティであった者たちが社会の変化によりマイノリティになるとき、どういった反応を示すのかに興味がある。たとえば愛煙家であり、たとえば革命により地位を追われた人々である。
マイノリティたることについて考えるたびに自分の思考の月並さというか、考えているようで考えていないような不確かさを感じる。これはあらゆる話題に接した、包括的な話題なのだ。われの思考の枠組みそのものについて考える事柄だ。理解できない・あるいは知らないものごとについてどうすればいいのか、という哲学的な領域に感じられるし、何もわからない。しかし他人を大きく傷つけたくはないのだ。