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京都在住Webエンジニアの日記です

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態度の「やわらかさ」及び「かたさ」、特にかたさの再発見

一般に凝り固まった思考は良くないとされているその一方で、ある程度の思考の「かたさ」があったほうが有利である場合があるからこれについてメモを残す。多分既にこういう本は存在しているけれど、自分は杳としてその名を知らない。

世の中には色々な考え方のスタンスがある。その中に、自分は正常な判断ができているという「かたさ」、常識という「かたさ」が存在する。暮らしにおいてはこうした「かたさ」によりかかることができるし、大抵の人はそうしている。 よく起こる概念を常識として片付けることができるなら、それで十分である。SNSの年中行事であるレッテル貼りもそうした「かたさ」の一種である。

こうした「かたさ」があることで、日々の暮らしを正常に遂行できるようになる。「かたさ」とは、言い換えれば確信であり、信条の体系である。それに基いて世の中はおおむね運営されているし、星は巡っている、というわけだ。 想定外の事象が起こったときは、「かたさ」の体系のもとでは、体系を守る方向に事象を収束させようとする。例えば想定外の事象は外れ値であるとか、異常である、という解釈をもって終わりとする。 異常な犯罪者が異常な犯罪を犯しました、として切断して終わりという体系である。また、大人的な成熟とみなされる属性とは、この「かたさ」のことである。

対して「やわらかい」思考については、ジョブズ的なイノベーションをもたらすものとして、無条件に称揚されがちである。 「やわらかさ」の体系のもとで想定外の事象が起こったときは、既存の体系を疑う方向へと食指を伸ばす。むしろ積極的に学問といった権威を攻撃することもある。「勢い」や社会運動のような概念がこの「やわらかさ」を内包している。 常識を疑えという言葉は一種のスローガンとなりつつあるが、それは同時に自らの「かたさ」を放棄させうる。

この点について自分はあまり良くは思っていない。専門外の分野に対してやわらかさを発揮したところで大したメリットを生み出すことができないばかりか、怪しい陰謀論に取り込まれるのがオチだと思う。 もちろん、自らの専門分野においては、やわらかくのびのびと考えるべきである。しかし不用意に何にでも「やわらかさ」を発揮したところで、情報に押し流されて不安になっていくだけだと考える。ある程度の「かたさ」がなければ、取捨選択という行為すら達成できない。

批判的に言及されることの多い確証バイアスや正常性バイアスもこうした「かたさ」の一翼を担っており、完全にそれから逃れて暮らすことは不可能に近い。自分は柔軟であり先進的でバイアスから自由だと考えているならばそれこそバイアスである。 老害を批判する俺カッケー!! みたいな感じで自分たちを自由だと思っているならば、それは思い上がりである。それは「かたさ」にほかならない。

総合すると、ある程度は自由にものを考えたほうがいいが、だからといって自分が党派性から自由になっているわけではないことを自覚すべきこと(つまり、自由とはそれ自体が党派であること)、ある程度の「かたさ」がなければ生活は成り立たないこと、何らかの「かたさ」に寄りかかることは別に弱さではないことである。

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