Lambdaカクテル

Common Lispと自宅サーバにWebエンジニアリングの香りを載せて

人間を信じることの大切さについて

昔はそうでもなかったのだが、「人を信じるって大切だな~」と思うことがとみにある。 理由はいろいろあると思うが、最も影響しているのは、インターネットでつらい気持ちになることが多くなったことだと思う。

インターネットには楽しいコンテンツもあるけれど、目を覆いたくなるようなコンテンツもあって、僕にとっては後者が目に触れる機会が増えている。 こういうコンテンツの中でも一番嫌なのが、誰かを罵るような「ネットの反応」といったストーリーをコンテンツとしているもので、本当にいろいろな種類の人々が足蹴にされていて不快になる。 そういうコンテンツは注目を浴びるし、そこから得られる広告収入も多いだろうから、意図的にストーリーを編纂しているのだということは知っているし、インターネットに書かれていることの中には本当と嘘が入り交じっているとか、その程度の分別は僕は持っている。昔は無闇にあることないことを信じていたが、今はそうではない。

ところが辛いことに、実際にそういったヘイト的な憎悪をばらまき続けている人にツイッターとかで出くわすこともあって、ひどい事を言うなあというよりは、何がここまでこの人を駆り立てているのだろうと切なく思うほうが、最近強くなった。もちろんそういった憎悪を道具にした集客でフォロワーを獲得し、そのうちアカウントを売るというビジネス目的でそういった事をしているのかもしれない。とはいえ、そういった憎悪商法が分別の付かない人達に浸透していき、ことばを通じて偏見や差別的な目線が定着し、それと同時並行的に邪魔なものを排斥することで全てが解決するという思い込みがインターネットで一般的になりつつあるような気もして、杞憂だなと思いつつも、自分もインターネットで釜の飯を炊いている身分なので苦々しく思っている。

このパラグラフでは難しい話をするが、憎悪が根付くとき、最初に憎悪の扇動がある。マスコミが報じない真実だとか、特別な利権を持っている集団があるとか、そういう類だ。 そしてこういった扇動のターゲットになるのは間違いなくマジョリティではなくマイノリティだ。 なぜなら、マイノリティである度合いがある一定程度を超えれば、それを見た人間は検証するのが面倒で、その嘘を信じてしまうし、 またマイノリティは数が少ないのでマジョリティにとって未知なる存在であり、そこにある潜在的な恐怖が疑いになる。 それを憎悪に変換することで「敵と対立する我々」としてのアイデンティティが得られ安心できるし、マジョリティだから絶対に有利なので、無条件に約束された勝利感を味わえる。 言い換えれば、不朽の正義が得られるので心地良いということだ。

まあ難しい話はさておいて、他人を信じましょうってわけだ。インターネットは誰もが情報を発信できるようにしたが、嘘をつくほうが簡単だ。思わず誰かを恨みたくなるような、よく出来たストーリーをみかけても、そんなにうまい憎悪があるかよ、と、他人を信じるほうを選ぼう。信じるということは人間らしくも美しい感情だと僕は思う。人間はお互いを信じたからこそ生き残ってこられたはずで、お互いを信じなくなればお終いだ。他民族を信じなくなり、男と女がお互いを信じなくなり、"父は子に、子は父に"、"母は娘に、娘は母に"不信の連鎖が続くだろう。 そういう世の中は絶対につまらないし、不幸せになるだけだと思う。

だから、自分はインターネットで憎悪を売っているのをみかけても、人間を信じる方を選ぶことにした。憎悪商売のために、魂までは売らない。