土日にやることといえば家に引きこもってネットをぶらぶらすることぐらいなのだけれど、しばらくぶらぶらしているうちに結局飽きてきて自分は何がやってるんだという気持ちになるものだ。 食品や工業製品と同様に我々は情報の消費者でもある。
ただ食品や工業製品と違って情報の消費者になりきってしまうと人生における豊かさを失ってしまうのではないかという不安がある。 自分は何を考えていて何に興味があるのかという、自分を自分たらしめている根幹的な部分が主体性を失っていくような感覚が、 コーヒーが切れた後の気だるさのように、情報を摂取した後の自分に襲いかかってきて、息苦しくなる。
だがその一方で自分が主体的に情報を発信していく事とて、そうそうできることではないのだ。 個性が重んじられる世の中にあってもなお、 明確に自分の個性を認識して、かつそれを自分の一部として受け入れ、強く打ち出していくことができる人間などそうそういないのだ。 多分それは個性といった類の言葉で表象できるものではなく、どちらかといえばスキルだとか能力と言った言葉とかに還元されるべき要素ではないだろうか。
人間の多様性を受け入れるべく打ち出された個性という言葉が、商品としての人間を記述するための語彙になってしまったともいえる。人間を商品として捉える価値観が世の中にかなり根付いているように感じられる。自分の息苦しさはそこから来るのかもしれない。
話を元に戻して、情報の消費者から発信者になるべしと物語を語る時、自分は情報という財を生産しアウトプットによってバリューを生んでいる生産者であると自分を再定義してはいないか。 それはあまりに短絡的な発信に対する考え方ではないだろうか。 何かをインターネットに公開していくとき、それが本当に誰かにとって価値をもたらすのだろうかという無意識の制約を自分の中に設けてしまっていないか。それは間違っていないか。
つまるところ自分にとってのアウトプットとは強烈な自己主張をインターネットという場を借りておこなっているだけであって、それに伴って何らかの価値が生まれたりといったことにはたいして興味がないのだ。 もちろん形式的には単なる自己主張と何らかの技術的な記録や備忘録は区別されなければならないだろうが、完全にこれらの二つの要素を分離しきるといったことは到底できそうもない。
元々インターネットは学術的な目的によって結成されたネットワークが端緒となっているが、時代が下るにつれてそういったアカデミックで文書的な側面は横へとおしやられ、より大衆的で流動的な、音声的なコミュニケーションの場へと進化を遂げているのだと思う。 かつて厳密に文語と口語を使い分けていた日本語が口語に一本化されたかのように、インターネットにおいても同じような口語的な現象が起きているのだろう。そういった文化の違いが、アウトプットに価値を求める発想と、単なる自己主張とする発想との境目にあるのかもしれない。