昨今の俺の様子を知っている奴はあまりいないだろうが,なんか以前と比べて調子が変わってきている.それも,良い方向にだ. それでいて,なぜ調子が良いのか自分でもあまり把握しきれていない部分がある.このため,調子が良い方向に向かいつつあるファクターを考えてみるのも悪くないと考えた. 読者諸賢にとっては蛇足の極みだろうが,他人の自己分析めいた戯れを眺めるのも,年末の雰囲気を盛り上げるためには悪くないんじゃないかな.
また,価値観のターニングポイントのありようは,転換しきってからでは分からないものだ.その記録を残しておくことで,なんらかの発見があるかもしれない. それぞれの節同士にはあまり関連がなく,パッチワークのように書かれているので,それぞれの間に論理的な階層関係を考えることは難しいかもしれない.これは独身会社員男性の孤独な戦いを,なんとか書き付けようとした記録なのだ.だらだらとした文が続くが,人生とはそういうものだ.
またこの記事は 人生 Advent Calendar 2018 - Adventarの25日目の記事である.
形而上的な,ねばっこい,ナードな話が続きます.
希望の発見
高校の頃からか身に付いてしまったネガチブな価値観をようやく克服しつつある.高校から大学にかけて,良いことがあまりなく,なんとなく俺の気持ちは暗かった. だがネットをうろついていたり,本から見付けたり,自分で人生から拾ったりして,おだやかに自分と向き合うためのツールを身に付けてきた.
要約してしまえば,人生に希望を持つことだ.きっと良くなるさ,という希望の火を絶やさないことだ.漠然とした希望を,あらゆる物について持ち続けるのだ. 世の中の雰囲気もきっと良くなるし,みんな幸せになるさという未来への希望.自分の人生には何らかの意味があるのだという人生への希望.きっと彼・彼女も悩んでいるし,わかりあいたいんだ,という他人への希望. ある意味,思考放棄であるし,お花畑的な発想なのだが,こと自分のプライベートな信条のうちにあっては,こういった楽観主義は何ら害悪を成すものではない.こういった思想を論理のバックボーンを借りずに他人に押し付けることから争いが始まる.
別の記事でもしゃべっているような気がするが,俺にとって現代とは,希望のない時代なのだ. 経済成長は円熟してしまい,他の国に煽られ続けている.なんとなくあった日常への信頼感が破壊され,生まれ出でた不安感が日常になんとなくへばり付いている. 強い立場にいながら何をやっても良いのだという姿勢を隠そうともしない政財界と,それに耐えられずに目を瞑る,はたらくものども. 睡眠障害という赤い海に転落し,その水中にダイブして見えてきた,水面下でひたむきに堪えながらじっとしている,社会の外側に置かれたものども.
ともかくこれが現実的かどうかは置いておいて,俺には世界がそう見えるようになった.俺はひねくれているし,偉い人間にこうだと言われたら,そうではない側面に目が行くようなタイプだ. 見て見ぬふりをしながら語り,しつらえたクールさが何より気に入らない.どちらかといえば,あえぎながら実直に問題に立ち向かっていく人間が,俺は好きなのだ.
いちど目に入ってしまった矛盾をなかったことにして,生き生きと日常を彩っていけるほど俺は器用ではないので,どこへ行ってもそのことを思い出すし,考えてしまうのだ. だから精神的な負担をなんとかして下ろす必要があった.
そこで他人への信頼を導入するしかないと考えた.自分はこういうひねくれた人間なので,他人のことも醒めた目で斜に構えて見てしまう.だがそれでは人間不信に陥るだけだ. だから他人の可能性を,他人が擁する善なるものを信じることにした.人間を,党派的な,カテゴライズされた存在として見てしまうことを,なるべく避けるようにした.
人間をカテゴライズされた存在として見ることについては,以下記事が思考のベースにある.
要するに,顔を想像しながら,あるいは顔と向き合いながら接していくべし,ということだ. 顔が見えない相手にさまざまな業を背負わせることは,誰にだって容易い.人間として見ていない相手にさまざまな業を背負わせることは,あきれ返るほど容易い. でもそれでは(少なくとも俺は)幸せにはなれないと思うんだ.
人生はアートなんじゃないの
自分の人生にどう意味付けをしていくのかという,アイデンティティの問題に踏み込んだ話をするぞ.
中学生のころから,ちゃんとしたまともな大人になりたいって思いながら日々暮らしてきた.高校の頃からそんな感じ.本当の大人になって,周りの奴らを見返してやるぞ,という気持ちで暮らしていた.だがそれは自分を苦しめる結果になったらしい.自縛自縄になってしまい,スーパーエゴにおもねりながら日常を暮らすことを選んでしまった.それはもともとあった自分を抑圧することになってしまった.こうあるべきなんだ,こういうのが本当なんだ,という規範に自分を当てはめていく考え方が当たり前になってしまって,あるべき自分からの乖離という形でしか自分を認識できなくなっていった.これは不幸なことだった.いつも誰かに監視されているような気がしたし,落ち着いて物事を考えることができなかった.
んでそのまま25歳になったんだけど,ある日突然,自分が絵を描くことが好きだったということを思い出した.そこで考えて,絵って特に価値とかを追求されることが無いから良いよね,と思った.誰かが書いた絵に向かって,「それにどんな価値があるの?wもっと勉強しろ,ゴミを描くな」みたいな事を言う奴は居ないわけ.それっていいよな~と思った.人生はアートだという考えかたへの端緒である.
自然なありようを
そもそも,自分は他人ではないわけじゃないですか.どう生きていったっていいし,それを責められる者は居ない.それを「人生はアートである」という言葉として結実させたんだけれど,どうだろう. 芸術は本来的に,その存在理由が自己満足にある.自分を適当なキャンバスに見立てて,どこまでやれるか挑んでみたい.そこに規範や価値の序列などないし,点数をつける人間は居ない.生き様自体が芸術なのだ.だから,自分に見合わないとか,見てくれが悪いとか,そういう自意識をすべて投げやってしまう必要があった.自然なありようを,ただやればいいのだとわかってきた.
わかっている人は最初から分かっているだろうし,何をいまさら,と感じる人もいるかもしれないけど,自分がこの境地に辿り着くのは大変だった.
インターネットとの距離
人生を好きに生きていくのは難しい.他者との衝突だとか,劣等感だとか,脅威への不安だとかがある.他者というものがいる以上,それは人生の本質的な問題であって,逃れることができない.
インターネットにはそれを増強する側面があるんじゃないのかな.インターネットがなかったら,こんなすごい頻度で他人と接触することは無いと思う. 身の回りでは出会うことがないような,優れた人間だとか,悪い人間だとか,相容れない思想の持ち主とかが次々に現れる.しかも情報の流速が速すぎて,自分にとっての意味みたいなものをじっくり考えてみる,といったことができない.俺にはいっしょに暮らす家族いないし,地元に住んでいるわけじゃないから社会的基盤がけっこう薄い.そういう社会的基盤が薄い人間にとっては,インターネットで見る社会が全てになってしまう. よほどマッチョな精神力を持っていないと,それに耐えられないとおもう.だからインターネットはインターネットとして,切り分けて考えるようにした.インターネットは同じ情報が反復されやすくて,自分にとって大事なのかそうでないのかの選択を難しくしてしまうような気がする.
自分なりにネットと付き合う方法を考えてみて,「あまり深入りしない」という態度をとろうかなと思っている.それが丁度いいのかなって思う.
懐古のゆりかご
インターネットとの距離感の話にも通じるところがあるが,懐古するということを楽しめるようになった.
もともと俺は懐古するという言葉にあまり良い印象を持っていなかった.昔の価値観にしがみついて,時代の変化に付いていけない人達,といった感覚でとらえていた. 老人がよく使うような,「人間の暖かみ」とか,「つながり」みたいな言葉が嫌いだった.合理性を受け入れない,頑迷な態度というふうに認識していた. 俺はコンピュータやインターネットに未来を感じていて,それを支える合理主義的なもの,技術によるマッチョイズムに傾倒していたのかもしれない.
だが俺がそういう態度をとることで,自分自身の態度にも制約がかかるようになってしまった.世界の速度を見誤るようになったのだ. 「どんどん変わっていく世界に追い付かなくてはいけない」「取り残された人間は不幸になる」といった焦りのようなものが心を蝕み,キャリアに対する不安が心に重くのしかかった. 取り残される不安は並大抵ではない.強迫的にニュースやはてブをずっと見るようになったのも,この影響があると考えている.情報を取り入れていないと不安なのだ. 本を買うのに読めなかった.「無駄になってしまう」のが怖いからだ.そして積み上がった本を見るたびに嫌な冷や汗が出た.
そうこうするうちに精神が壊れていき,睡眠導入剤を処方されたり抗鬱剤を処方されたりするまでメンタルが悪化したのだが,その中にあってなんとかそこから脱出しようともがき,俺はゆっくり世界の見方を変えていった. その要素はいろいろあると思うが,そのうちの一つがバイクだ.
バイクの免許を取ってバイクを買った.教習所でも買ったバイクの上でも,バイクに乗って走っている間は,世界がどうなっているかなんて事を忘れられた.流れる自然はただ美しかった. そして行く先々にライダーが居た.インターネット以外の社会を見付けたのだ.インターネットのおかげでものすごい速度で動いているかのように見えていた世界は,バイクのおかげでもっとゆっくり流れるようになった. 純粋な趣味として成り立っているバイクという世界は,とてもゆっくり,それでいてしっかりと流れている.
そうした中で,自分ってそんなに変わっていかなくてもいいんじゃないかな,という感覚が芽生えてきた.焦りのようなものが薄らいでいき,自分の好きにやればいいや,みたいな気持ちが生まれてきた.
追い抜かれる心配をやめて、追い付くことを愛する
子供の頃は追い抜かれる心配なんかしてないはずで,いつしか俺は追い抜かれることばかり心配してしまうようになるわけ.でもそれだと生きていく主体性を失ってしまう.あれをやりたい,という意思からではなく,これをしないといけない,という恐怖で何かをするようになってしまう.それじゃ長続きしないわけ. 追い抜かれてしまう心配をしても何の役にも立たないわけで,だったらもうそういうのを考えるのをやめようと思ったわけ.
そもそも,追い抜かれる不安を煽る人もいるじゃないですか.それをやると技術交代を,需要の創出を,労働者のダンピングを強制的にうながすことができるから,恐怖を煽って次はReactだ,次はSPAだ,みたいなことをやるわけ.みんななんとなく恐怖に駆られてそのムーブメントに同調するけど,それで本当に幸せになるのかな.
なりたい自分をイメージする
とはいえ暮らしていかないといけないし,なんなら給料上げていきたいじゃないですか.そうすると市場価値(人間を市場に跪かせるような響きがあってあまり好きじゃない言葉だ)を上げていく必要がある. でも,むやみに行動し,考えても,ブラウン運動みたいに自分がいるあたりをうろうろするだけで,結局どこにも行くことができない.エッセンシャル思考って本にも似たようなことが書いてある.
だからまずやらなければならないことは,なりたい自分をイメージすることだ.行き先が見えて初めて,そこへ向かう道筋を考えることができるようになるし,そこへ向かえているかを測ることができるようになる. 点を打たなければ線は引けないのだ.だからまずどこに行きたいのかをじっくり考えたほうがいい.キャリア的なロールモデルを考えるのもいいし,もっと大局的に「どういう人生を歩みたいか」とか,「どういう未来を見たいのか」といった着地点でも,全然良いわけ.仕事は人生に従属する存在なわけだし.あいまいな終点でも,そこにたどりつくための通過駅を落ち着いて考えていけばいいの.だから遠慮なくなりたい自分をイメージしていきたいな,と思っている.
おちついて考える余裕ができる
この記事は,ぼおっと拙宅の窓から,冬至の冷たい夕雲に照り付ける落陽を眺めながら書き始めた.
ここまでに書き,感じ,考えたさまざまな事柄によって,落ち着いて考える心の余裕が静かに生まれ,この備忘録が出来上がった.
良いお年を.
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