マナーほど軽んじられてつらい思いをするものはない。 そしてあらゆる界隈でマナーに困っている人は多いようです。 見聞きしている範囲ではスケブのマナーだとか、コスプレのマナーだとか同人のマナーだとか、云々。
ところで昔話を思い出してほしい。童話でも良いです。 ちょうど手元に『かさ地蔵』があるのでちょっと見てみましょう。
ある雪深い地方に、ひどく貧しい老夫婦が住んでいた。年の瀬がせまっても、新年を迎えるためのモチすら買うことのできない状況だった。 そこでおじいさんは、自家製の笠を売りに町へ出かけるが、笠はひとつも売れなかった。吹雪いてくる気配がしてきたため、おじいさんは笠を売ることをあきらめ帰路につく。吹雪の中、おじいさんは7体の地蔵を見かけると、売れ残りの笠を地蔵に差し上げることにした。しかし、手持ちの笠は自らが使用しているものを含めても1つ足りない。そこでおじいさんは、最後の地蔵には手持ちの手ぬぐいを被せ、何も持たずに帰宅した。おじいさんからわけを聞いたおばあさんは、「それはよいことをした」と言い、モチが手に入らなかったことを責めなかった。
その夜、老夫婦が寝ていると、家の外で何か重たい物が落ちたような音がする、そこで扉を開けて外の様子を伺うと、家の前に米俵やモチ・野菜・魚などの様々な食料・小判などの財宝が山と積まれていた。老夫婦は雪の降る中、手ぬぐいをかぶった1体の地蔵と笠をかぶった6体の地蔵が背を向けて去っていく様子を目撃した。この地蔵からの贈り物のおかげで、老夫婦は良い新年を迎えることができたという。
『かさ地蔵』は、信仰心が僥倖として還ってきたというストーリー。 他の昔話も「良い事をしたら良い事が還ってきた」とか、「約束を破ったら報復された」とか、「人をだましたらひどい目に遭わされた」とか、そういうものが多い。
「神話」のポテンシャルは高い
要するに私が言いたいのは、昔話には説話的要素が多分に含まれているということ。 論理的に正確に文章を伝えるのが困難な時代に覚えやすい口伝えの昔話、神話が愛用されたというわけ。 先人の知恵を凝縮して余すことなく次の世代へと受け継いでいくために、神話は適していたのだ。
なぜ知恵の伝達に神話が適しているかというと、神話にはストーリー性があって聞き手はそのあらすじを追体験することができるからだ。 ああしろこうしろとルールを決めて高圧的に迫るよりも、他者とのやりとりを疑似体験する神話の方が圧倒的に実感が湧きやすい。 べき論で迫るよりもよほど強力な説得力を神話は持っている。
神話に説得力あり。 そしてPixivをはじめとした日本のネットコミュニティには、そういった説得力のある描写ができるクリエイターが本当にたくさん居る。 彼らの描くマンガの世界に引きずり込まれたり、イラストの雰囲気に圧倒されたり、(あるでしょ?)小説に没頭したり、曲に感動したり。 まさに神様として世界を創っている。
そういった創造の場所でのマナーはよく話題になる。 ときおり、守ってほしいという悲鳴がtwitterなどからきこえてきて、私は胸の上のあたりが痛くなる。 そして作家の方がマナーや知識の啓発のためにイラストなどで献身してくださっているのは、とてもよいことだと思うし、頭が下がる想いだ。 ただそこにもうちょっとだけ提案させていただくなら、それを神話にしてほしいのだ。
想いをストーリーに
つまりこういう事だ。 マナー啓発にストーリー性と具体性を加えて、説得力のある神話にする。 子供向けの伝記の漫画と言ったら分かりやすいだろうか。 さらに、それ自体が作品としての創作性を持っていれば、つまり啓発のために創作するのではなく、創作に啓発がちりばめられているくらいにすれば、より説得力が高まるのではないかと思う。 ニンジンを食べさせるための料理ではなく、おいしい料理にニンジンを入れてあげるのだ。 あからさまな説話を飲み込みやすくするためには、そうやって抽象化したほうが良いはずだ。
もちろん完全な創作をしなければならないと言っているのではない。 そこに神話が描かれていれば、二次創作でも伝わるものは変わらない。
長々と講釈を垂れてきたが、そういった創作と神話の融合ができれば、自ずとその神話の意図するところは人々を伝わっていって、とてもネット文化の風通しはよくなると思う。 いつかそんな日が来てほしいと思いつつ、私はこの文章を書きました。