掲題の通りです。ちなみに十年以上このブログを使っているので成人した頃にも記事を書いているようだが、当時はネットに見せるような友達もあまりいなかったので、特に何事もなく別の話をしている。当時もAkkaを書いていたらしい。
しかし十年も同じブログを書いて三十歳になるというのはなかなかインパクトがある。十年間もダラダラと日常を書いたりしているからである。しかしこのブログのアーカイブ表示の地層からは同じような言葉の瓦礫が出てくるばかりで、劇的な変化があるわけではなかった。十歳が二十歳になるのは疾風怒涛の日々だが、二十歳が三十歳になると航海や凪のような様相を呈してくる。嵐は来ない。自ら漕ぎ出さなければならないということである。十有五では志しているだけで良かったが、三十になると立つことを要求されるのは、そういうことかもしれない。
とはいえ、内面や外面ではいくらか変化もあったことと思う。すくなくとも二十歳のとき自分は就職していなかったし、今より劇的に悲観主義者だったし、荒削りで、燃えるナイフのようであった。今はというと、当時は全く予想だにしていなかったが、プログラミングで生計を立てていられる程度には収入を得ているし、結構楽天家になったし、チャレンジできるようになってきた。心はいい感じに角が取れる兆候があり、ついでに腹も丸くなってきている。
かねてより内向的で積極的に人生に繰り出すタイプではなかったので、この十年の流れの中に燦然と輝く金字塔、というわけではなく、華麗なる経歴があるわけでもないのだが、ガタガタ揺れながらもなんとか走ってきたし、それなりに自分の人生には満足感がある。そういう見出し方を見出したことが十年間における奇貨だと言えるかもしれない。特段の専門教育を受けていない状態で野良犬的にプログラミングをやっていたところをサマーインターンに参加でき、CSってなんだよ!という状態ではてなに闖入したことは間違いなく僥倖である。そういえばそのきっかけもAkkaであったように思う。Scala書いてるの、といったことを社員の誰かに訊かれたような記憶がある。奇貨居くべしとはこういうことで、とりあえずチャレンジしておくと後からなんか良いことがあったりする、というのが一つの教訓である。
繰り返しになるが、おおむねボンヤリ生きてきたのでこれだというものが特にない感じで、ここ十年を振り返ってどうです?と自分に問い掛けても、なんかあまり思い出せない。本当にボンヤリ生きているのだな、とそこだけはハッキリしている。まあそういうとらえどころの無い人生も、多様性の一つと言えるかもしれません。でもボンヤリ生きているということは達成感もないので、それは精神衛生上良くないかもしれない。面白いことやるぞ!!!という意欲だとか、自分の人生を自分で演出する用意周到さだとか、頭の柔軟性を大事にするといったことがあると良いけれど、とっくに地図は埋まりきっていて、面白そうなことはもう誰かがやっていることを知ってしまっているがために、常に二番煎じの人生を歩まなければならない辛さというのは、確実に十年前よりあるな、と思っている。人間の同一性が破壊されていて、だったらみんなと同一になればいいじゃん、という感じの世相はあるかもしれない。
特筆性のあまりない誕生日エントリになっちゃった。やっぱりボンヤリしているのがいけないのかな。これからもヨロシク!