情報過多
さいきん情報過多というワードが気になっている。情報化が進み進んであらゆる場所から情報が発せられているので、それらをそのまま受け取っていては一人の処理能力を超えてしまい、精神的な不調を起こすというような話。
なるほど僕は何でも集めるタイプで、子供の頃はお菓子の缶とかよく分からないネジとかを熱心に集めていた。今は艦娘やサーバを集めているので特に何も変わっていない。誇らしいではないか。
他にも溜め込みがちなものはたくさんある。例えばブラウザのタブで、些細なことでもあとで読みたくなった時に探す手間が惜しいので開きっぱなしにする。結局読まないのでメモリだけ減ることになる。そればかりかブラウザを見るたびに読んでないタブを見て見ぬ振りせねばならない。そっちに注意が吸い取られてしまい、いまいち頭の中がスッキリしない。モノを集めるのと情報をとっておくことは同じではないらしい。
ついさっきiPhoneのブラウザタブを消して回った。考えなければならないことが減った。あとで読もうという意識は、すなわち読まなければならないというプレッシャーであるのだなあと思った。安易にそのうち読むことにしてしまうと、いよいよ負担になって気分の毒になるから、読むものはその時に読んで、読まないものは全く読まない、というスタイルを受け入れようかと思っているところ。
文章力読解力
たいていよく読める人*1はよく書けると思う。
おそらく人は何かを書く時、無意識に(そしてときには意識的に)書いた文章を適当な箇所から読み直して推敲するだろう。その過程で文章の微妙なニュアンスや語法の誤り、論理関係や係り受けの矛盾を検出して訂正するのが上手であれば、うまく伝えたい事を文章として形作られるはずだ。
まさにこれは読解力そのものではないか。自分の文章を読解して、その結果をフィードバックしてさらに文章を鍛造する。これが推敲という過程だ。
さっぱり文を読めないが書くのは上手いという話をあまり聞かないのは、そういう訳があるのだろうと思う。もちろん面白いかどうかは別次元の話で、練れば練るほど面白くなくなってしまうのは、正確を期すことで読者から想像の余地を奪ってしまうからなのだろう。面白い小説の文章なんて案外めちゃめちゃだったりする。
ナントカ力ナントカ化
ナントカ 力というのは本来「○○スル」という動詞にかかるべき接尾語で、あえてこのルールを踏み外すと今風の奇妙な日本語を作ることができる。
- 熱意力
- 真面目力
ついでに言うと ナントカ 化は状態名詞にかかるので、「見える化」はこれに違反する。違和感の正体はその辺にありそう。可視化、操縦可能化などとしたら違和感は無くなりそう。
日本語のルールを守らないのは勝手だしどうでもいいけど、あくまでも意思伝達をするべき場では使わないほうがよさそう。広告では違和感を逆手にとって心に引っ掛けようという戦術だと思う。よく出来ている。
その点、西周や福沢諭吉を筆頭とする明治期に西洋観念の訳語を考えた先人はめっちゃ頑張ったなあと思う。
ちなみに中国ではプリンターのことを打字機と呼んでいて、異様な説得力がある。
*1:たくさん読むのとは異なる。