先日ネットで、「どうしたら子供の知力が伸びますか」という問いに対して、「子供が選んだ好きな本を読ませてあげてください」という答えがあるのを見た。 記憶が曖昧なので正確な内容ではないかもしれないが、まず好きな本を読むことで文章を読む訓練を積み、そのステップを踏んでようやく複雑な概念を理解できるようになるのだから、いきなり難しいものを与えても覚えようとしないし、理解もできない、という内容だった。
確かに自分の場合も、親がよく好きな本を買ってくれるものだから、学習まんがの類を読み漁るうちにすっかり得意になって、活字中心の本も勇んで読むようになったと思う。 この場合、本を読む中で実際に読解スキルが上がったのはもちろん、「自分は本が読めて賢いぞ」というふうに自分がその気になったというのも、スキルを高めるための土台になったようだ。 これはなかなか侮れないと思う。「なんか自分はこれが得意なのだ」という一種の思い込みは、自己成就予言としててきめんに働くわけだ。
ところで、実際大人になってみたらどうだろう。もう勉強しなくても良くなったか?全くそんなことはない。 獲得したスキルが高まっていき大人になったらカンストするということは全くなくて、むしろ新たに様々なスキルが必要になるものだ。 計画立ててプロジェクトをマネジメントするだとか、並行して作業をこなしつつ成果にするだとかのスキルを、大人になってからも高めなければならないのだ。
そこで先述した「その気になる」というテクニックが重要さを帯びてくる。世の中に放たれて成果中心の環境になんとか潜り込むと、強い同期、もっと強い先輩、そして強くなっていく後輩の中で泳ぎ切ることになる。その中では人様から(最終的には)おカネをいただくための様々なスキルを嫌でも求められることになる。というか、そのスキルのために雇われるのだ。
われわれはかつて、「卒業すること」が目的であり、ポカをやらかさなければそれが達成できる、路線ありの集団に居を構えていたが、そこを追い出されて、成功を求められる企業に出荷されてきた。そこでは「現状以上」を探して奮闘する人々が狼の群れのようにうろついている。すると(少なくとも自分は頭を使ってこなかったために)すっかり腰砕けになって、自分はまるでダメだ、僕はここにはいられない、といったこじらせ方をしてしまう。自分を冷徹に見るような訓練をすればするほど、自分の表面にあるひび割れがどんどん大きく見えてきてしまい、ぶつかって砕けるのが怖くなってしまう。
だからこそ自分をその気にさせなければならない。自己啓発の類にもそういう側面があると思うが、別にそれに頼らずともその気にはなれる。 子供が本を読むのを覚えるのと同じように、ちょっとしたことをやってみて、得意がってそれを続けるように仕向けるのだ。 そうすることでいつか自分は必殺仕事人になっている。自分にはできると信じるうちに、やはりできるようになるわけだ。
だがこの「その気」を貫くのが難しくて、横を見れば優秀な同僚が成果を出しているし、ともすれば「より良い解」をぶつけてくるかもしれない。 そうなると自分がやっているブロックのお城が途端にちんけな代物に見えてきて、城を壊してしまうかもしれない。 だが「俺にもできるぞ」という気持ちが萎えてしまえばそれまでだから、このあたりの論理武装が重要だ。
まず、他人が大きく見えて仕方がないときは、その分野では自分が後塵を拝していることを素直に認めてしまおう。 これまで横並びに育てられてきた我々は、「様々な分野でばらばらに育つ」という新たなステージに突入しているのだ。
「学年」という言葉に結び付けられた、このレベルの人はこういう事ができて当然、という考えを捨ててしまおう。 企業はチーム戦であることも思い出そう。完璧ではない人間が力を合わせて困難な問題に立ち向かっているというイメージを描こう。
プログラマーの生産性は人によって大きく隔りがあるという伝説によって、隣人との力量差が果てしなく開いて見えるのがこの業界だ。 だが希望を見失いさえしなければ、追い付くのは意外と簡単かもしれない。自分の場合、「もう追いつけない!」という諦めが自分を最終的にノックダウンすることが多いので。
いまは剣を抜いて戦う時間だ、今は剣を磨く時間だというふうに切り替えてやっていけば、適切に成長し続けることができるかもしれない。 ちゃんと忘れずに得意気になって、すごいヤツがいたら自分の脅威としてではなく先人として視よう。 慎重なだけでは臆病で、ぶつかるだけでは無謀だ。二者が揃うことで、それが勇気へと変わるわけだ。