Lambdaカクテル

集団への盲従を激しく嫌う

あれをやらなきゃこれをやらなきゃをやめた。

秩序だって仕事をこなすことに慣れているソフトウェア開発者は、私生活の面においても、生活を複数のタスクに分解し、それをこなしていこうとする傾向がある。

Elasticsearchを使えるようにならなくては。デプロイメントについて知っていなければおいていかれる。ああ、自転車を有効活用して運動しなくては。鼻が高くなるようなオシャレな料理もしたい。本を読んで知識を身につけよう。

とはいえそううまく行くものではない。仕事にはゴールがあるが、私生活にはそんなものは無い。やるべき事を洗い出そうとしても、キャリアプランだとか、ライフハックだとかの崇高な目標が視界にまとわりついて、非現実的な、地に足の付かない、実感のないタスクが関心事の多数を占めるようになった。

なんとなくこの本を読んでいるが、何も楽しくない。でも読まなくては。皆が当たり前のように喋っているこの事を知っておかなくては。恥をかかされないようにしなくては。間違いを犯したくない。マウント好きな連中に正論で叩き潰される前に。上から目線のアドバイスとやらを頂戴する前に。

果たしてその高い意識でできた生活は、ソ連の計画経済のようにうまくいかなかった。生活から楽しみが奪われていき、異国の地に一人で迷い込んだかのような孤独感に苛まれた。思考の土台となるべき体験を然るべき質と量の両面において積んでいないので手がかりが掴めず、滑り続けた。目標を高く捉えすぎて上を向きすぎたので、翼は失速し始めていた。このままいけばいずれ精神が耐えられずに墜落すると思った。

周りの目が恐ろしくなり始めた。何も手につかない。レベルが高すぎる。

インターネットにはスーパーエンジニアをもてはやす記事が溢れている。だから忘れてしまいがちなのだが、普通はあんなにやれる精神はそう簡単に手に入らない。出来る人間のうち少なからぬ人数が、出来ない人間が何故できないのか全くわからないし、いま自分が居るレベルに立ったアドバイスしかできない。そしてときおり、質問や相談の主体性は無視されて、極めて客観的な答えや指摘が投げつけられ、それはしばしば他人行儀に映る。それは質問に答えるというアカデミックな一面においては正しいが、相談と回答という対人コミュニケーションとしての一面においては全く的外れに間違っている。私の聞き方が悪いのだろうな。質問に答えるのは難しいし、質問をするのも難しい。リスペクトフルなコミュニケーションは難しいのだ。

推力だけで上へ飛び上がれる変態もいるが、普通は風を受けながら一定の角度でしか登ってゆかれない。私はそちらを選ぼうと思う。そしてこまめにログを残したい。いつの日か自分が「分からなかったことを忘れた」時のために。それはいずれ誰かの助けになるだろう。

で、家ではやりたい事しかやらないようにした。一日中コードを書いて悩むのはやめた。堅苦しいソフトウェア開発の事を考えないようにした。のんびり好きな本を読み、ゆっくり好きなことを考える。それが私にとっては一番の癒やしだ。今を生きている感覚が戻ってきた。やらなければならない事をすべて忘れる時間が必要なのだ。子どもの時間が。何か忘れているのではないかという恐怖から、心を開放する必要がある。スマホから通知をよこすようなアプリを一掃した。ツイッターやニュースで不安を仕入れるのはやめた。最低限の情報源でいい。

今はまあまあ幸せだ。