Lambdaカクテル

集団への盲従を激しく嫌う

世界を捉え,自分を捉える,しかも多様性の海を漂流しながら

世界地図

どこかへ出掛けるときにはいつでも地図を持ち歩いている. 持ち歩いているといってもGoogle Mapを手元の端末から開いているだけでたいしたことではないのだが,場所を記憶することがあまり得意ではない自分にとってはGoogle Mapは欠かせないものだ. 通常の道路地図のほかにも,航空写真や地形図を表示できるので面白くなって眺めることはあるが,やはり自分が一番使うのはデフォルトの道路地図だ.

地図とは,人間が世界をどう見ているかを抽象化して表現したもので,人間の価値観にしたがって世界が描写される道具である. 山へ登る人が使う地図は世帯主の名前を載せないし,路線図は標高を載せない. 情報が取捨選択されるのみにとどまらず,一部の地図は情報の伝え方を変容させる. 例えば江戸時代の旅人向けに描かれた地図は,要所に注目させるために意図的に距離感を無視したり,地図を見ている人ではなく道路に視点を置いて風景を描いていたりする. 同じ場所の地図においても,さまざまな世界の伝え方があるのは面白いことだ.

ところで,見慣れた道は地図が無くても歩くことができるし,他人を案内することだってできるのはどういうことだろう. あたかも心の中に地図があって,それに導かれて歩んでいるかのようで,あまり何も考えていなくても目的地に着くことができる. とはいっても実際のところ,本当に頭の中に地図を思い浮かべて目的地に達しているのではなく,心の中のあいまいなイメージに身を任せながら歩を進めていて,気付いたら目的地に達している,と考えたほうが自然に思える. こういった処理はほとんど無意識に行っていて,おそらくふだん意識がある自我とは別にある脳のどこかに————例えばコンピュータがある種の処理をグラフィックボードに任せるように————丸投げしながら別のことを考えたり,カレーのメニューをどうするか考えたりしているのだろう. 要するにそういった無意識に生成された地図的なものが,僕に世界を認識させているらしい.そして他の人も同様に地図を持っていて,世界で起きた色々な事象やシンボルたちの間に連絡通路を結ばせて,知る限り遠くの世界を把握する手助けにしている.

僕にとってはその地図が重要な関心事であり,公私を問わずに興味の対象になることが多い.例えば,ハードな状況に身を置かれた人間のうち,活路を見出せる人間もいれば,デッドエンドに追い詰められる人間もいる. また,社会的に関心を持たれている事柄を見た沢山の人間が全く同じ解釈を並べるわけではなくて,たいていさまざまな別の解釈を提示する.しかもその差異は大胆かつ鮮やかで,ひとつの事象に対してさまざまな形にメスが入れられ,はじめてその時に僕は世界を見ることができるようになる.何でもない日常を旅路の一点に結び付けることができる人もいれば,僕のように近視眼的に日常を捉えがちな人もいる.

日常を通して世界を近視眼的に捉えてしまう癖は,自分でもよくないと思っているものの,こういった認知の歪みはどうやっても完全に直るわけではないし,認知の原器があるわけでもない. それでも他人が見せてくれる,日常のさまざまなシーンをつかまえていって結んでいき,より大きなステッチへと統合していく様子は,芸術的で美しいと思う.そしてそれがうらやましいし,素直に魅力的でもある.

ストーリー

それだけではない.世界を認識するための地図とは別に,自分を認識するための手段もどこかにあるはずだ. 個人的に僕はそれを「ストーリー」と呼んでいて,世界に対して自分がどういうかかわりをもっているのかを定義することで,間接的にアイデンティティを定義するもの,というふうに考えている. 例えば金のない学生というストーリーがある.このストーリーにおいては,金がなくてボロい家に住んでいるとか,安い飯を食っているとか,そういうものである. ここでストーリーの役割は,「自分は[何者]なのだな」という認識をわかりやすく自分にもたらすことで,自分が何者でもないという最悪の状態を脱する手助けをすることである. 人は何者かになりたいけれど,何者かになりきるためには勇気が必要だから,そういう方法で自分を認識して,安心するのだと勝手に思っている.

どうしてストーリーの話をしたかというと,自分はそういうストーリーをあまり見付けられなくて,部分的なストーリーしか手にしておらず,それで苦しむことがあるからだ. 例えば部活動はとくにやっていなかったのでストーリーをうまく作れなかったし,受験もあまりうまくいかなかったのでストーリーがない.IT企業で働いているが,CSの学位がないので微妙な収まりの悪さを感じたりする. そういうストーリーの欠如のためか,自分の家には統一感というものがなくて,いろいろな世界が混在している.これを形容するぴったりの言葉がないという表現が,ぴったりの表現だ.

もちろん自分のストーリーを他人が決めるということがあってはいけないし,それでは意味がないけれど,今は支配的な文化というものが分解していって,より多様に文化が変化していく道のりの途中だと僕は思っていて,そこでみんなとはぐれてしまった迷子の間に,自分は何者でもないのだという感覚が広まるんじゃないかなと思っていて,その中でうまくやっていくには何事にも動じないような芯の太さが価値観や精神性に求められていきそうで,僕はそういうのあまり得意ではないから困ったなあという気持ちになっている.