Lambdaカクテル

集団への盲従を激しく嫌う

人嫌い/自意識過剰

休日の昼に感じる息苦しさについて考えてみる。

休日の昼が息苦しい。とくに、晴れの日。買い物に行くのも億劫で、玄関先でおえっとなってしまう。できるだけ自分の世界に引きこもっていたいが、工事の音、エンジン、そういった気配が心理的な壁を突き崩し、部屋の中でも落ち着かせない。

他人が居るのが嫌なのかもしれない。夜はたいして苦しくないのが不思議だが、他人が寝静まっているからそうなのかもしれない。もし誰も街に居なければ、昼もとっとと出かけて、公園で散歩するかもしれない。他人に怯えながら暮らしているという点において、自分は他人の人生を生きている。

とはいえ、過疎という言葉がお似合いの地元に帰っているときも、息苦しくないのかといえば怪しい。その意味するところはどちらかで、実家でも人の気配が(自分にとっては)強すぎる(あるいはそう誤認している)か、人の気配とは別のところに精神的な安定が委ねられているかだ。それは今週末に実家に帰ってから考えることにしよう。

ところで、他人との距離感が切迫して感じる原因にはインターネットが間違いなくあろうと思う。どこまで離れていても地球上で起きたニュースが届くし、それが明るいニュースばかりであればよいが、暗いニュースである時などは、本能的に自分を守ろうとして緊張したり、あまりのひどさに(インターネットは人を裁く道具としては尖りすぎている。怒りに突き動かされた人間が冷静になるまでの時間を与えないからだ。銃規制にも同じような構造を見いだせるだろう)気分を悪くしたことなど一度や二度ではない。

インターネットに触れている間、思春期特有の、自意識が世界全体に広がるような意識の変質が起きているような気がしてならない。思春期のそれは成年になるにつれて収束し、ポメリウムよろしく自他の境界線が定まっていくものだが、インターネットがもたらす強力なソーシャル性、相互作用が自他の境界線を曖昧にし、本来ならば全く自分の外にあると認識していたものが自分の庭の中で起きているような錯覚を起こさせる。

混乱はここから始まる。本来「他」である社会が自意識に取り込まれても、社会自体が孕む矛盾や対立が解消されるわけではない。自分はこれを自己として認識してしまうので、自分の内面において矛盾と対立を経験することになる。もちろん多くの人間はこうした葛藤を経験するが、ここでは自意識が拡大しているので、あらゆる混乱を自我が引き受けてしまう。その苦しみが、今自分が受けている苦しみではないかと思うようになった。

インターネットを仕事にしていると、ずっとつながった状態が続く。

いついかなるときも、常に他人の存在を感じずにはいられない。