Lambdaカクテル

京都在住Webエンジニアの日記です

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感情の空中分解が、主義主張の砂嵐の中をくぐり抜ける中で起こることについて

他人の主張、たとえばマクロにはネットで見る政治的なそれだとか、ミクロには看板の宣伝文句だとかを見聞きしたときに、自分の感情や実存といったものが振り回されているように感じている。感情の起伏が激しくなって消耗してしまうし、精神的に不安定になるのでなんとか乗り越えたい。

たとえば最近話題のニュースについての意見をネットで見かけるとする。自分と合う意見もあるし、合わない意見もある。暴言に近いものもある。そういうのを見ると、現実における猥雑さや混乱がいっそう心に響いてきて、内的な世界観の秩序が大きく乱される。自分では対処しきれない問題があまりにたくさんこの世に存在していて、嫌な匂いを放っていることに耐えられない。世の中には目を背けたくなるような問題が山積している、しかも目を背けられない!多数派に巻かれれば万事気にすることはないかもしれないが、それでは知性を携えて人として生まれた意味が無い!他人や事物について何か決めつけるということは、自分が最も嫌いなことの一つだからだ。なぜなら自分自身そうされる苦しみを知っているし、他人にその傷を負わせまいと思うだけの良心的呵責があるからだ。

これは自分の自己確立が完全になされていない証左かもしれない。世界に乱雑に置かれた禍という禍を合わせてもなお自分という存在は揺るがないのだという自信。自分は安全だ、いや安全でないかもしれない、社会的抑圧を受けるかもしれないが、魂までは死なないという信頼。そういった精神的な豊かさというか、魂の慣性を支配する質量は、単に居心地の良い人と群れるだけでは得られないものなのだろう。

日頃すぐツイッターを触ったりしてしまうから、自分の日常は独立の対極に居るようだ。ネットでつながれる限り、孤独に突き放されることが無い。常に群れている。それがある意味人格形成の邪魔をしたかもしれない。

じゃあ独立した大人、確立した個、人格の陶冶には何が必要なのだろう。世の中が多様になっていく中で、こういった悩み方をする必要が出てきた。正答が無いのだ。あらゆる人生がありうる中で、その通奏低音になる土台、人生観を模索する必要があるわけだ。裏返して言うと、他人の人生の何も信じられない。何を気にするべきで、何がそうではないのか、それを見つける必要に迫られている。

ところで他者の主張と内的な世界観との釣り合いの担保について極端な事を言えば、あらゆるニュースを完全に無視して自分だけの世界に耽ってもいいのだ。放っておいても万事うまく行く…………という態度。しかしこれでは現実と自己との断絶を深めるだけで、嬉しくない気がする。とはいえすべてのニュースに一喜一憂していれば感情の空中分解は避け難く、情報の取捨選択と世界観の選択的な構築の重要性がかえって浮き彫りになるだけ。

特に結論は無い。自分が求めているのは思想かもしれない。ただネットでうんざりして疲れたくないだけなのに。

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