先日までは体調が結構よかったのだが最近は悪い。体調というか精神的にしんどいことが多い。
最近よく飲み会が発生していて、自分はそういうのについて行ってしまうので飲み過ぎて前後不覚になったり羽目を外したりしてしまい、自尊心が傷つけられたり自他の境界が曖昧になってしまったりしている。
こういう自堕落な生きっぷりでいいんだよという自分と、もっと正しくあれ、正解を選べという自分とがいて、その狭間で苦しめられてしまう。
何度も書いてきたことだけれど自分は「正しい」とされる事に強く束縛されてしまいがちで、誰々はこう言っているとか、これは常識だとか、そういう言葉の応酬を見るとがんじがらめになってくたくたになってしまう。インターネットはもめごとや嫌味だらけで、使い方が悪いのかそういうのによく遭遇して嫌な気持ちになる。
もっと意識を低く保ちたい。ネットやってると偉そうな奴がしたり顔で説教を始めるからどうしても意識高めに振れてしまう。そういう連中にもアンチがいて、あれこれ反論をしてみたり相手を非難したりするけれど、結局それも対極に住んでいる意識の高い奴なのであって、別にどうでもいい、という意識の低さには辿り着けない。いい加減ネットに振り回されるのをやめたいのだけれど、ネットで育ったからネット以外の親を知らないカルガモのような状態で、ネットという現実の外で遊ぶ術を知らない。
でもそういう意識の低さというものは意識の高い人々によって排斥されてしまう運命にあって、そういう押し付けがましさにうんざりしてしまう。黙っていずにはいられない人間が、ほっといてほしい人間の居場所を無邪気に駆け回って、畑を荒らしてしまう。例えば、選挙に行かなくてもいいか、と思っている人間のところにやってきて、あれこれ脅したり透かしたりして選挙に行かせようとする。歴史認識について敵か味方かを品定めしようとしてくる。
そういう意識の高さの切れ味というか、真面目な意見に対する防御策のなさというか、不真面目はどうあがいても真面目なロジックに勝ち得ない(これには例外があって、非論理的な人間になり、好き勝手発言する事で勝ちうるが、これは品性の問題とも言える)。「どうでもいい」という態度に一級市民の地位が与えられていない。強制的にどちらかについているという事にしてしまうのがネットの嫌なところというか、恐ろしいところだと思う。
意識の低い話
よく使っているマフラーが大きすぎるので、小さくて品の良いマフラーが欲しいと思っているけれど、もう春が来そうな勢いで日が差す京都にはもう要らないかもしれない。
意識の低い話2
夏はあまりしないが、ちんたらと家でお茶を飲むのが好きだ。理由も無く、ただ何となく茶葉をパックに入れて淹れる。
こう考えたことがある。視覚や聴覚、言葉は媒体に記録することができるからあれこれ論評や「客観的」評価の対象になるが、においや味は記録することも、正確に他者と共有することもできないから、究極的に私的な愉悦に属するのではないか。感情もこの私的な愉悦に入るが、じとじとと長く尾を引くことがあるし、辞めたくても辞めようがないのであまり娯楽としては嬉しくない。やはり嗅覚と味覚が娯楽として優れている。他人にあれこれ口出しされることも、勝手に代弁されることもないのだ。自分の味覚は確固として自分のものであり、確固として他人のものとは重なり得ない。嗅覚もそうだ。その場にいない限りシェア(同じ体験をしているという事以上の共有はできていないのだが)できないので、承認欲求のために消費されることが最も少ないと思う。