人間生きていると誰しも己の実力不足によって「うお~~~!!悔しい!!覚えてろ!!」という局面があると思う。 このあいだも、仕事がなかなか進まず悔しい思いをした。まわりを見渡せば同僚はどんどん仕事を進めていて、これが悔しくないことがあろうか。 悔しさというのは自分への怒りだ。自分が出したいほどの力を備えていないことへの怒り。それを認めざるをえない自分への怒り。自分が周りと比べて劣っていて、同格に立てない怒り。あらゆる自分への怒りが炎のように血管に広がっていく。 だが一朝一夕に自分がすごくなることなどありえない。ちょっと腹立ちまぎれに本を読んだとて、何かがすぐにできるようになった試しなど杳として聞かないではないか。 そのもどかしさとやるせなさが触媒となって、怒りの炎をいっそう深みのある色へと変える。 持っている怒りの色は人それぞれ異なり、他人に説明して納得してもらったり慰めの言葉を貰うことは容易ではない。何がどう悔しいのか説明するというのは、自分がいかに無知無能かということを供述させられているようなものだからだ。
その一方で、僕はうっかり者なのでその事をすぐ忘れてしまうのだ。 ハートに付いた火をもみ消して、悔しさを感じたことなどなかったかのように振る舞ってしまう癖がついてしまっているのだ。 見て見ぬふりをしてしまう、というわけだ。まあいいじゃないか、人それぞれじゃないか、自分のいい所を伸ばせばいいよ。といった意見もあるにはあって、それに従うと自分は劣等感を感じずにすむらしい。
そして最近そのデメリットについて考えるようになった。 悔しさを忘れるというのは、向上意欲を捨ててしまうことでもある。悔しいと思うということは、自分もそうありたいと思っているということなのだから、積極的に自分の進む道標とするべきなのに、それを忘れてしまうのはもったいない。そして、忘れたことで不満をかわしたような気がしても、実際は心の中には歪みが生まれている。悔しさは悔しさとして昇華するべきだとおもっている。自分への怒りを、実力の向上でもって乗り越えるのだ。
そもそも自分のいい所を伸ばせといったところで、そこも追い付けずに打ち負かされてしまったらどうするおつもりか。自分が既に得意な所に逃げ込んだところで、そこが脅かされない保証などどこにもないのだ。根本的な解決は、乗り越えなければ得られないように思える。
だがしかし、だがしかしだ。この考え方を突き詰めると、そのまま鬱病に転落するのだ。経験者は語る。誰だって得意だったり不得意だったりする所があるので、まわりにいる無数の人間とくらべれば、どこも見劣りするように見えるもんなのだ。くやしい所を努力してもけっきょく実らず、その過程で溜め込んでしまった緊張と興奮で張り裂けんばかりの神経が、一挙に破綻するかもしれない。そうなれば人間は燃え尽きる。どうしたってどうにもならないと、意識が崖から落ちてしまうのだ。
だから悔しさをどのくらい覚えておくべきか、それとどうつきあうべきかは、うまくバランスをとりながら考えなければならないのだ。そのためには、感じた悔しさを一度明に記録しておき、意識の手の届く範囲に置いておくべきだ。漠然と悔しさを流したままにしておくと、思ったより人間は自分にかかっている負荷の量を見積りきれないものだから、周りとの落差を大きく感じすぎて圧倒されて、やはり鬱病に転落するのだ。