以下バラバラな思篇を集めただけのものです。
好きなあの子とも、嫌いなあいつとも、ネットで簡単に繋がれてしまう世界って、なんだか日常のドラマを殺してしまってるな。
同じ一つの気持ちのやり取りで使える弾数が増えたってだけで、一つのやりとりの濃さというか、文脈の豊かさは貧相になってつまんない。
ネットでみんなが繋がってる社会では、つねに何かの多数派が決めたにすぎない社会的規範があって、それに合わせないとつまはじきにされる。
ネットは多様化を推し進めてなどいない。一つの様式は瞬く間に他の文化に感染する。もっとも強い文化が他の文化を制圧する。郊外のショッピングモール、寂れた商店街、バイパス沿いのチェーン店、どこかでみたどこにでもある風景と同じことがネットでも起こる。
意識はつねに自分の外へと向けられる。電線の向こうで起きていることを、私のことのように錯覚させられる。自分のこと、好きな本、愛着のある実家、子供の頃行った浜辺、昔遊んだ近所のお姉さんの事をネットは教えてくれないし、最初から無かったかのように排斥する。
検索しても出てこないもののほうが多い。ネットは人間が興味のあるものしか知らない。ネットが世界の全てではない。好奇心の資本主義の下では、情報の多様性は損なわれる。
人はいろいろなことを知っている。料理のレシピ、おばあちゃんから聞いた知恵、妻が好きな映画、近所の猫のことを。それらは人から人へとゆっくり染み込んでいって、受け継がれていく。わざわざ人に教えるまでもない消極的な文化は、ネットには表れない。でも人の文化ってほとんどがそんな文化じゃないだろうか。