Lambdaカクテル

集団への盲従を激しく嫌う

ハロー、オフライン、グッバイ、メモリー

最近は精神的に調子が良い。何もないのに胸が締め付けられたり、横断歩道で危険な気持ちになったりする事はあまりなくなったし、部屋が自分を守っているように感じる。

精神的に弱ってからずっと自分の感情とこのブログで向き合ってきた。同僚がそれに触れて、良いねと言ってくれた。なんとなく嬉しかった。自分にとってはここに書くことが一番自分の感情だとか立場だとかを整理できる方法として確立されているし、なにより包み隠さず書いても冷やかしたり徒に干渉しようとしない懐の広さを、同僚は持ち合わせている。だからこそこうやって魂の転写じみたことをなんとか遂げられる。餓死寸前の人間にいきなり食事を与えても死んでしまう。それと同じで、精神的に張り詰めている人にアドバイスを持ちかけたり詮索しようとすることは、悪い結果しかもたらさない。まずは水、そして重湯から回復ははじまる。そういう立場にいられることは僥倖というか、良い同僚に恵まれたと思う。

自分が他者からどう評価されるかをあまり気にしなくなった。つまり前はしていた。同僚が優秀なのでどうしても比べてしまうし、劣等感を抱きがちで、そういう立場から自分がどう見られているかに固執していて、怯えていた。それで自分の価値が決まると思っていた。 でも視界を広げてみると、働いてるんだから大したもんじゃないか、自分の人生なんだから自分で自分の価値を決めていいんだ、他人の評価なんか気にしなくていいんだ、世の中には知らなければならない事が溢れているように見えるけれど別にそんな事はなくて、インターネットでは針小棒大に書かれたものがたくさんあるように見えるだけで、人の生活のペースは何も変わっていないんだ、とか。 いろいろなことがあった。

ほんとうに疲れて、辛くて、床でうずくまって、スマホの電源を切って、パソコンをタップから引き抜いた日があった。それでよかった。世界はこれまで通り動いていたし、夜は静謐に満ちていたし、いままで朝だと思っていなかったものが朝だということに気付いた。世界が手のひらの上に載ったような感覚だった。むしろ急にぼやけていた空気が真っ直ぐになって、時間に意味が与えられ、言葉に色が宿った。長いため息が出た。

なんでこんなに世の中は暗雲垂れ込む心象の悪いものなのだろうかと、大学に入る頃から、社会というのが他人事ではなくなった頃に思ってから、僕の未来への態度は概して悲観的であった。僕が未来というものを考えるとき、そばには小さかった頃の燦然たる記憶への憧憬というか、調和への意志があって、それが却って現実と干渉し、影を作って精神的健康に差し込んでいた。今となっては、あの燦然たる記憶は、周りが幼い僕に世の中の暗い側面を見せまいとして出来上がった蜃気楼のようなもので、もともと世の中は安定してこんな具合なのだなと納得がいくと、急に気持ちが楽になってきた。