Lambdaカクテル

Common Lispと自宅サーバにWebエンジニアリングの香りを載せて

読書の二日目はなぜこんなに苦いのか

気になることがあったり、読もうと思っていた本にふさわしいような課題が目の前に転がり出てきたりして、 読書に取り組む。 その日はまだ問題意識が心に灯っているせいか順調に読書は進み、なんなら読書メモだってつけていたりするものだが、 僕の場合は二日目以降が問題になるのである。

次の日になると他のやらなければならないことに頭が圧倒されてしまい、昨日気にしていた事柄を気にするような頭の余裕がもはや残っていない。すると昨日まであれほど魅力的に映っていた書籍が 読めなくなってしまう。 そして読まなかったことで自分への期待を裏切ってしまったことへの自責の念に苛まれてしまう。

まあそもそも本なんて好きな時に好きなだけ読めばいいのであって、自分で自分を縛るのは楽しい読書とは言えないだろう。 しかし技術書やビジネス書となると事情は違ってくる。ある程度成果に結びついているがゆえに、どれだけ読んだかで自分を評価してしまうということが起こりうるのだ。

とはいえ読めなければ意味がないわけだから、読むことを最優先に考えると楽しさ優先で読むのが良いということになる。そういうわけで、どのような種類の本であっても楽しさ優先で読めればいいのかなと思うようになった。 目的意識をもって書籍を読むことは内容を理解する上で重要だとは思うが、最も大事なのは 読んでしまうことである。

会社組織とは違って、一人の人間というのはそれほど強い合理的な決定プロセスに基づいて行動しているわけではない。それに気付かなければ自分の非合理性を受け容れられない。もとより人間は非合理的な生き物なのだから、その非合理性をうまく御していくやり方を見つけつつ暮らすのが、ほどほどに自分を高めていく生き方だと思う。

自分の食い扶持に関わることだからあまり悠長なことは言っていられないのだが、それでも読書なるものは人間の暮らしの中ではおまけのようなものだと思っている。

(知的な)インプットとアウトプットという概念は、特にソフトウェア開発者の間で強迫観念のように地球を覆っている。それが間違っているというつもりはさらさらないし、それらは大事にするといい。だがその一方で僕は、設計とコードの世界に没頭するはざまに精神的な豊かさや人間性への賛美が失われていく複雑な感覚を自分の中に見て取っていて、 ソフトウェア開発者の美徳としての知的生産と人格としての豊かな暮らしを両立させられないのか考えている。