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京都在住Webエンジニアの日記です

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メディアによって伝わってくるショックによって揺さぶられる冷静さと,脱ショックについて

先日より,アゼルバイジャンとアルメニアとは戦闘状態にある.様々な出処の怪しいニュースが報じられ,少なくない数の人々が浮き足立っている.

なかでもショッキングなのが,アゼルバイジャンによる自爆ドローン攻撃の様子が動画でTwitterに流れていることだ.トラックの周りに集まっている兵士達にドローンが突入し,辺りが白煙に包まれる.その後,横たわって動かなくなっている兵士達の様子が収められている.数メガバイトの動画に,十数人の命が消える瞬間があっけなく収められている.

こうしたショッキングなニュースに触れると,人は冷静さを失って非合理な行動に走りがちである.しかしながらどんどん自分たちが触れる情報はショッキングになっているようにも感じられる.どう折り合いをつけたら良いのか考えた.


ショック

さてショッキングな情報とはどういった性質のものなのだろう.考えてみることにする.ショッキングな情報は感情に揺さぶりをかけ,錘のように心を引きずるような効果を生み,時として集団的なヒステリー,今風に言えば炎上の引き金にもなる. そもそもどうでも良いと思っているなら人間は情報を無視するものだ.どうでも良い話題が炎上することがないのだから,このことは確かだ.ショッキングな情報には,どうでも良くないと思わせるようなトリックが仕掛けられていると考えたほうが良さそう.

メディアはショックをどのように伝えてきたのかというと,よりショックな方向へと進化を続けてきた.最初は言葉によっていたコミュニケーションが,文字が発明され,活版印刷が発明され,文字からイラストが使われるようになり,イラストは写真によってショックの度合いを上げ,さらには動画が使われるようになった.

インターネットが登場する頃には,反応を可視化することでショッキングさを強調するという表現技法が発明される.反応の可視化の例として,まとめサイトやリプライ欄,コメントといったものが揚げられる.反応の可視化によって,情報の重大(そうに見える)度合いが増すのである.通信技術の発達によって,リアルタイム性の演出といった 表現技法も発明された.生放送である.ショックさの演出の技法は枚挙に暇がない.

さて,おそらくメディアはこれからもショッキングに進化していきそう.メディアの収入が視聴率やPVといった「より多く見られること」に依拠しており,内容の正確さや冷静さには拠っていないのだから,ショックを与えるという選択肢は捨てるわけにはいかない.ちなみにショックを与えるのは購買に結び付けるためである場合もあれば,ショックそのものが目的であることもある.前者はCMであり,後者はニュースメディア. そして,人々を何らかの行動に駆り立てるためにショックを利用する政治家の存在も忘れるべきではない.(何人も思い付くでしょう?)

余談だが,ショックの演出の手法としてVR技術がおそらく今後使われていくのではないかと思う.メディアと視聴者という分け隔てられた関係から,「ニュースの状況を視聴者が実体験する」といった演出が凝らされていくのではないか. ひどい目に遭う様子が録画されていて,それを視聴者は見てショックを受け,興奮する.というかこれは既に近しい状況が出来上がっていて,トラブルに巻き込まれ,ともすれば暴力沙汰になったりする様子を自ら録画して世に放っている人がたくさんいる.これがさらにVRになれば,冷静でいられる人はいないのではないだろうか.

先ほど文字や写真等について触れたが,改めて説明すると,こうしたメディアがもたらすショックの大きさにはグラデーションがある. 文章はそれほどでもないが,映像はショッキングだ.入念に撮られた映画はウソだと分かっていても大の大人をして涙せしめてしまう. そして同じニュースを伝えているだけでも,内容が全く同じであるにもかかわらず,メディアによってショックの大きさが変化する.これは重要なことだ. 伝えかた一つによって受ける印象がまったく変わるということだからだ.

脱ショック

ところで,人間の知性は抽象化で担保されているようなところがある.抽象化によって余計な情報が削ぎ落され,考えがブレなくなっていく.すると長期的に物事を考えても予測の精度が上がっていく. おそらく天災や不作,戦乱といった命にかかわる現象に晒され続けてきた古代の人々は,長期的な予測をより正確に立てる能力を獲得せざるを得なかったのではないだろうか. 愛すべき人が殺されたとき,報復を繰り返せば際限が無くなることに昔の人は気付いていた.このため殺人という現象を犯罪という抽象の枠組みに押し込んで,知性の中で取り扱えるようにし,さらには裁判や賠償といったシステムで取り扱えるようにしてきた.

これはすなわち,ショックを意図的に脱却させるようにシステムが進化したのだと考えることができる.殺人は(その当事者以外にとっては)もはや裁判の枠組みの構成要素にすぎず,そのショックはほぼ取り除かれている. 社会秩序の安定と合理化のためには,おそらくショックを骨抜きにすることが不可欠だった.直接民主制を採用する国はほぼ存在せず,多くの国では間接民主制が採られている.人民による直接裁判は行われず,職業裁判官が判決を下す.報復は許されず,国家が暴力を独占する.

しかしメディアの進化によって,不必要にショックな情報が生のまま流布されるようになった.どれだけショックであるかがこの社会で耳目を集めるための必要条件になりつつある.であればこぞって人はショッキングな情報を発信し続けるようになる.さまざまな炎上がネットにはあるが,大騒ぎされているわりには核心となる情報は大したことがなく,ともすればどこででも行われていることが取り立てられて燃やされているだけ,ということがある.本来は誰も気にしないか,ちょっと気にかる程度の事柄が,ショックによって集まってきた(そして特に建設的意見は出さない)人々の熱気によって加熱され,ついに発火点に至って炎上してしまったような,不運さそのものが炎上の本体であるような場合がほとんどなのではないだろうか.

炎上だけではなく,ショックは人間を群集心理に駆り立ててしまう.魔女狩り的な集団ヒステリーや,集団間の対立とそれが進行して生じる断絶,本音を言い出せない空気の醸成,合理的行動を取れなくなる不幸,そして何よりも,個人のレベルでも,不安が一つ増えてしまうことで様々な不利益を受けることになる.おそらくこの先ずっと,我々はショックに晒され続けることになるのだ.

であるからこそ,ショックに自覚的でなければならないなと思った.多くの人は無意識に情報の選別を行っていると思うけれど,ショックを目的とした情報が存在すること,それを利用する人達がいることについて自覚することで,自分の精神的な安寧も守られるし,社会的な発展も守られるのではないかと思うのだ.ショックについて自覚することで,ショックからの脱出が可能になる.おそらくネット社会で幸せをつかむためには,脱ショック技術がある程度必要なのではないだろうか.

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