Lambdaカクテル

京都在住Webエンジニアの日記です

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情報の僕

誰が言ったかではなく何を言ったかで判断しろというネットの不文律があったような気がする.でもそれはもう古びていて,けっきょく誰が言ったかで判断する世になりつつあるな,と思う.

まずそこらを流れている情報が多すぎてどうにもならない,というのは先日のエントリでも言ったとおりだが,別の観点もある.それは意見の交わし方がどんどん乱暴になってきているということだ.

過激な物言いほど活発なもので,中庸な意見は日の目を浴びない.過激な意見というのは最もらしく感じられるように巧みに着飾っているから,まともに取り合っていると向こうの天秤で重さを計るようなもので,つまるところ過激な味方か過激な敵になってしまう.それに過激な物言いを検討するのは心にくる.だから意見をじっくり検討することができないのだ.

このような傾向はTwitterに著しい.これはTwitterが短文をやりとりするように設計されているために当然生じた結果だといえる.しかも,Twitterが人々の考え方に広く影響を与えるほどに力を持っているので,ときどき俺は,このまま日本人はじっくり意見を交わすということを未来永劫忘れて,思い付いたことをただ繰り返し言うどころか,誰かの口当たりの良い主張を検討もせずにそのままロボットのようにただ貼り続けるようになってしまうのではないかという心配をしてしまう.というか,既にそれは現実で,何かをRTするとき,俺もお前もただの再送機械だ.そこに意見といえるものは何一つありえないではないか?単純な反応をするだけの,ただの反射でしかない.何も,考えていない.引用RTも意見とはいえないはずだ.どちらが従者であるかは明確だからだ.しもべなのだ.

話が脱線したが,俺はどういう態度で意見しているかを見るのも悪くないと考えている.懲罰的,威迫的な態度で放たれた意見は,ただそれだけの理由で斥けても差し支えないと思う.もともと人に意見するというのは差し出がましいことだろうから,本来は穏かで礼儀をただしてするべきだ.しかしながら俺の知る限り,日本のインターネット文化では意見と意見を乱暴なやり方でぶつけあうのが正道とみなされているように思う.これについては誰かが,このような文化を確立してしまった2ちゃんねるの責任は重い,といった意味のことを述べている.

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