Lambdaカクテル

京都在住Webエンジニアの日記です

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人間、全部優秀を目指さなくても、普通で良いっス

日が暮れたので、行きつけのスタバにふらふら歩いていた。ぼーっと歩いていると、同じような人々が、涼しくなった路地をうろうろしていた。

人を見ながら、人間は、案外普通だな〜という気付きがあった。 なんらかの作品に描かれるような優秀な人生というものは存在しなくて、まあだいたい普通の人が普通の暮らしをしている。過酷な競争を生き残ったエリートだけが世の中を構成しているわけではない。

自分が他人と比べて優れているかどうかで悩むとか、自分は何者なのかみたいな話題で悩むということがたまにあるが無意味だ。世の中の人って大抵が普通で、何か尖ったものを持っているような人でも、その尖っている箇所以外は普通の人で。そういうことを考えていると、自分は何もできなくて劣っているのではなく、単に普通なだけだということがわかる。何者かになりたいのであれば、普通な箇所は普通なままに、得意な事だけ伸ばしていけばよい。現状が悪だというわけではない。

よく、「このままで良いのだろうか」という漠然とした問いで感情を揺さ振られることがあるが、そういうのもたぶんウソだ。世の中を見渡すと、優秀な人間ばかりが目に入る。優秀な人間が発信している。それと自分との間に、霧がかかって見えないような落差を感じる。それと比べると、自分は一体何なのか?と思ってしまう。 特に、自分はソフトウェアエンジニアなので、インターネットでの存在感みたいなものが割とアイデンティティに結び付くところがあるような気がしている。

で、このまま普通でいても別に大丈夫なのだ。全てに高得点を取らなくても、めちゃくちゃな減点をしなければ人生なんとかなるのではないか。そりゃ選ぶ側からすれば高得点な人間を選びたいかもしれないけれど、結局は平均的な人間が一番多いわけだし。見渡せば、普通っぽい人が普通っぽい人と結婚したりして、普通っぽい子が産まれたり、産まれなかったりしている。その一方で、誰もがいっぱしの何者かになりたいわけで、インターネットがそれを加速させているような面があると思っている。普通な人間には僅かの注目も与えられず、目立つ人が全ての注目をさらっていくような仕組みになっている。 インターネットは全ての表現者に表現の機会を与えた一方で、全ての普通な人も表現者のステージにひきずり込まれて表現者と戦わなければならないという呪いを与えてしまっているような気がしている。そして、自分のところの商品だとか商材を買わせたい存在がいたずらに人を不安がらせているような面があると思う。

問題となっているのは、人間に対する見方だと思う。 優秀な人間、出来の悪い人間という、ビジネス書やツイッタラーが好みそうな単純な二分法的分類をするのではなく、得意なこともあれば不出来な箇所もある普通の人間がたくさん居るということを理解することが大事だと思う。一面的な「優秀な人間」などいない。 「つよつよエンジニア」みたいな俗語があるけれど、これはそういう単純な物の見方を反映しているような気もするのだよな。エンジニアとして強くても、(もちろん強ければ良いだろうが)それ以外は平凡で、あまつさえ強烈な欠点があったりするのは普通なわけだし。そこを捨象して、優秀さみたいな曖昧な指標を振り回すことで、せいぜいケンカの種しか提供できなくなっているのではないか。こういった考え方は、解毒する必要があるように思う。だいたい、「普通じゃ生き残れませんよ」という概念が意味不明だ。全体の5割は平均以下だからだ。競争を生んで儲けたい人の売り口上に過ぎない。

だから、街を歩いていても強烈な劣等感に苛まれることはあまりなくなってきた。自分はこの世の中のなんなんだ、と辛い気持ちになっていたけれど、この世の中の平均的な人間のうちの一人であるということがわかり、それはそれで普通なことで、そこに加点要素としてプログラミングができるエンジニアとしての自分がいる、みたいな。人間を優秀さみたいな指標で雑に値踏みするべきではないのだな、ということがわかってきた。

帰路からは既に夏は立ち去っていて、ただ枯葉が転がる音が響いていた。

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