Lambdaカクテル

集団への盲従を激しく嫌う

桜の日曜日・自信無くしがり屋・代替可能な技術者

桜、桜、桜。通り過ぎる路々に桜が咲いていた。もう開花宣言は出されただろうか。今日は体調が比較的良く、天気も良かったので自転車に乗って街をぶらついた。所用で電子部品を買い、その足でホームセンターでノコギリといった類を購入し、そしてCafe UGに行った。

京都に引っ越してきてから僕は基本的に一人で暮らしている。一人で暮らす京都は味気なく寒い。京都で学生生活をやったわけでもなく、京都で生まれ育ったわけでもないからだ。京都はいい街だと言うけれど、それはコミュニティと己とをつなぎとめるフックに恵まれたひとの話だ。いきなり新卒で京都にやってきただけの人間にとっては、なんだか馴染めない感覚がある。京都の文化に見合うだけの文化資本が無いと言うほどでもないと、自分の底値を見切っているわけではない。ただ京都の文化は学生の文化だ。自分はもう学生ではない、少年ではない、という負い目のようなものがあって(ふつう少年という言葉こそ負い目なのだが)、それに自分の安住する所を見出せないというか、文化・コミュニティは僕を受け入れてくれないだろうという、確信に満ちた絶望のようなものがなぜかある。これはどこからくるものなのか自分でもさっぱり分からないし、できることなら捨て去りたい観念なのだが。

この推測が的中しているかどうかは知らないが、何かの対象やコミュニティに打ち込めないのは自分に自信というのがないからだ、という仮説を建ててみる。だから自分が受け入れられないと思ってしまうし、居場所がないと感じてしまうのだと思う。自信無くしがり屋なのだ。圧倒的な力の違いを見せつけられて、学習性無力感というやつだろうか、それに生活全体が飲み込まれてしまったというか。世の中には自分よりもはるかにスゴい人はたくさんいて、しかもそれに容易に触れられるし、あたかも彼らが全く自分と同じ境遇に見えるように、SNSは仕組まれているから。同じプラットフォームを使っているというだけで、人は誰かと自分とを重ね合わせようとする。それが良い方向に働くこともあれば、悪い方向に働くこともある。喪失の渦中にあるような人は、自分に無い物を他人が持っているのを目の当たりにして、その喪失感を強めるだろう。生活の中心が自分から逸れていき、他人と自分とを常に比較するようになる。 趣味やスキル、技術に関することだとなおさらそうだ。自分のアイデンティティと強く結びついているそれらの話題は、心の中の一番弱い部分になりうるからだ。

どうやってアイデンティティを守る?よく僕は次のような気持ちになる:

技術は代替可能なので、誰かがもうできることを自分がやっても価値がない。

こう感じる意識をすこしずつ変えていくしかなさそうだ。技術者は代替可能だが、その技術ができる人間の数は限られている。技術自体は普遍的だが、よりメタな視点に立ったとき、その技術を扱う人間は思ったほど普遍的に存在するわけではない。という気付きがあった。