何者かになりてえな〜みたいな気持ちによくなる。いい歳に差し掛かってしまっているのだけれど、社会人としてはなんか泣かず飛ばずで、くすぶっている。何者です、と胸を張って言いたい気がする。みんな言わないだけで、誰もがそう思ってるのかもしれない。頑張らないといけない。そうなのだけれど、熱意が足りない。文章を書く熱意すら冷めてきがちになる。ようわからん。自分の限界みたいなものが見えてしまう気がして怖い、うまくこの恐怖を無視しないといけない、目隠しして崖まで走らないといけない。恐怖がふたつあって、限界が見えてしまう恐怖と、自分が空っぽであるという恐怖。結局なんも生み出せませんでした、というのはすごく、つらい。
なんで熱意がなくなるかというと、余計なものを見過ぎだと思う。余計なものを見て、自分が成し遂げたことに目を向けられなくなっているかもしれない、と思う。どの分野にも圧倒的な人がいて、敵わんなと思う。もしかすると、圧倒的な人が全てをカバーしてるわけではなくて、圧倒的な人がカバーしてるものが全てに見えているだけかもしれない。そうならいいけど。俺が思いつくことなんか誰かがとっくの昔にやっとるし俺よりも上手くやっとるやろ、という恐怖がある。
そうはいっても生み出すのは尊いよなーとも思う。いまもこうして文章を生み出している。自分は自分のことコンテンツ力あると思ってたけど、案外そうでもなかった、と言うフェーズを経て、まあまあ自分もなんか面白いじゃん、という境地にある。生み出すと言うと難解だけれど、知り合いに見せるみたいな身内的感情でやってもいいと思う。そう言うのでいいと思う。そうすんなら、熱意が湧くと思う。このブログも、普遍的な傑作を書くぞというモチベーションではなく、知り合いに見せてヤイヤイ言ってほしいから書いているところがあり、だからこそ続いている感じもする。
何者、というけれど、その主語があるはずで、誰に取っての何者なのよ、ということを忘れていたけれど、かつての自分は世界全てにとっての何者かになることを希求していたのかもしれない、しかし今は知り合いにとっての何者であればいいのかな、と思ったりする。普遍的ななんかにこだわりすぎてたと思う。交友関係を切り離した形での創作はたぶん成り立たない。群れねえぞ、みたいな厨二的へんなこだわりがあって、一匹狼的になりがちだったけど、人間はそうじゃないと思う。