高校時代はあまりに成績が悪く、屈辱的な体験が沢山あるのでコンプレックスというか自己肯定感の足かせになっているので、正直無かったことにしたい。勉強というか、努力の仕方を知らなかったのだ。ギリギリ、笑って話せる地点の「笑えない方の側」にある。
今となってはどうにか勉強できるようになりつつあるし、過去できなかったが今はできる、というふうに捉えられるはずだが、高校時代に「俺はもうダメだ」という強烈な自意識を打ち込まれたので今もそれが障害になっている。
なんで過去のことに悩んでいるのだろう。悩んでいるというか、反射的に「この人もいずれ自分のダメさ加減に辟易して去っていくだろう」という妄想に囚われたり、ふとした瞬間の持ち堪えられるゲージが高校時代の体験でデバフされている感じがする。まあ過去の出来事でいまの力が下がることなどありえないのだが、心理的にそうなるという話。今がいいならそれでいいじゃん、という捉え方もできるはずなのだ。今更高校の成績を引き合いに出して攻撃してくる人など、せいぜい週刊誌に載るほど大物になったならあり得る話だが、それこそ大物になっているのだから歓待すべきである。
過去が自分の一部をなすものなのかは大いに疑いの余地がある。過去は単なる通過点として見ることもできるし、誇りの一部として頭数に入れられることもある。いくら良い成績で学校を出たとて、より大事なのは今何ができるのかなのだ。あんときゃツイてなかったな、終わり、でいいのかもしれない。学校の成績はいかにも人間の尺度として通用しそうであるし、実際そうした使われ方で君臨しているのだが、べつにそれだけで胸張って歩けるもんでもないし、逆にそれが無くても世間様に顔向けできないようなもんでもない。
「俺頭良いわ」と思ってて実際に頭が良くなることはあまり無いと思うけど、「俺他人ほど賢くないんだな……」と思ってるとマジで頭が悪くなると思う。おめえ賢いな!って言い続けたい。