Lambdaカクテル

京都在住Webエンジニアの日記です

紅茶失敗 / 都会的な無干渉というスキル

今日はミスリムで紅茶でもやろうかと思っていたのだがあいにく(いつものことであり、もはや一種の賭け事のようになりつつある)満員ときたので、鴨川沿いに南下して帰ってきてしまった。思っていたよりも湿気が強く、ジメジメとしていて蒸し暑い天気だった。わざわざコートを着るまでもなかったらしい。

鴨川を歩きながらまた、本来はどこかの喫茶店でするはずだった考え事をしていた。悪い癖なのだが、自分は何かを考えているとすぐに自分ではなく世界や人の普遍的な物事として(つまり主語がデカく)考えてしまう嫌いがある。その結果として、自分の考えたい事だとか向き合いたいことから目を背けることになってしまう。

また、世界を捨てなければならないなと感じるのであった。学校はいつも自分にこれからの世界を担って立たせようとした。押し付けがましい話だ。自分は素直だったから、なんでも世の中について自分のことのように大袈裟に取り立てて、肝心の自分の好きなこととか、純粋な興味の事を大事にしてやれなかった。自分から遠い曖昧で抽象的な言葉やイデオロギーで自らを凝り固めた結果として、心の入れ物が空虚になってしまう。

自分の部屋に表れているなんか空虚な感覚はそれの反映かもしれない。社会正義に怯えた部屋づくりになっている。社会との距離の取り方が今だによくわからない。なんかの判断基準を自分の中にきちんと確立させたい。

多かれ少なかれ他人のことをモノ化して扱うことが、他人の干渉を近づけず平和に暮らしていく上では必要かもしれない。すぐに自分は他人のことを理解しようとする。だけど結局他人は自分ではないのであって、完全な理解はありえない。誰かが時折見せる、自分ならこの人のことをわかれるという態度は傲慢である。ちがう。分かり合えない。理解してあげようと思って誰かをフォローしたり、趣味が近い異性に近寄ったり、政治思想を拡散したりして、失望する。それなのに街並みは、分かり合いましょうという態度に溢れている。

いや、分かり合いましょうではなくて、受け入れてあげましょう、だったかもしれない。それなら可能だ。他人のことはよほど運が良くなければ理解し合えない。理解できないなら、仕方がないのでそういう奴だと決めてしまって、対等に受け入れてやる準備だけしてやる。

自分の場合、ネットを通じていろんな人と単純接触することが格段に増えたために、他人を理解することを半ば強要されつつある。傲慢にも自分の行動原理の枠組みに入れてしまうのではなく、自分の枠組みの外にやってしまって、しかしながら対等に受け入れることはする、といった落とし所を見つけなければならない。田舎的な同質性に守られた心理的な温室から抜け出てきて、ごちゃごちゃした都会の街角で(インターネットもまさにそうだ)暮らすには、自分とは違うから、といった冷徹な切り捨てスキルが必要になってくる。それは拒絶に一歩近づいてしまうようにも見えるから自分は少し躊躇ってしまうのだ(拒絶すれば、いずれされる側になるし、その辛さは知っているからだ)けれど、人は違うし相容れないものなのだという相互の了解があって、直接ぶつからない限りは無理に踏み込まないというのが拒絶とは違うところだろう。